とうとう静岡市と浜松市のコロナ警戒レベルが、上から二番目の「特別警戒レベル5」相当になった。他の県内市町はレベル4 。しかし伊豆の温泉地が危ない。
静岡県の感染者が急増したのは、go to travel で、大人口の首都圏からの旅行先を、遠距離をやめ近距離にするよう行政が指導したからである。
無発症感染者は近県へ旅行に行き、ウイルスを拡散させ、首都圏の周りに新たな高感染地が形成されつつある。
年末から新年にかけて人出は増える一方だ。密集からの感染発生は、トレースが難しい。行政は大鉈を振るって無用な人出を抑えなければならないと思う。
宮内庁はいち早く一般参賀を中止した。全国の有名神社も皇室に倣い、元日の初詣を禁止すべきだ。神社本庁のコロナ対応策を見守りたい。
コロナ禍は、我々の伝統的習俗を見直す良い機会である。西欧に近代科学でほぼ200年の遅れをとったこの国は、自然科学の分野では追いついたものの、人文科学が等閑にされ、精神の近代化は今日に至るまで進展しなかった。大学の人文系学部不要論を言い出す愚かな政治家もいて、暗澹たる思いにとらわれる。学問の基盤を疎かにして、科学の発展は望めない。
本来人文科学と自然科学は車の両輪、片輪では車は前に進まない。明治期文明開化期の自然科学偏重は、軍国主義と経済至上主義を招き、今まさにそのツケが回って国家の進むべき道を示せない。
過去に人文学が華々しく咲き乱れた土壌の上に、自然科学の発展を見た西欧と、基盤のないまま実用学を大急ぎで取り入れた彼我の差は、埋めがたく大きい。
既に存続意義を失い、無意味になった伝統の習俗や行事をどうするかの議論が国内にないのは、それらの意味が詳しく研究されてこなかったからであろう。
永い歴史を誇る国だからこそ、学術的な整理が必要である。それには人文科学の研究者の質と量が欠かせない。
これらの習俗を廃めるのは、時々の主催者にとって重い決断を要する。誰もが自分の時は決断を避けたいだろうが、佳いものは後世に遺し、意義の失われたものはこの際処理する英断が必要である。平時にはできない事も非常時には捗る。先送りを許さない状況下でなければ、人は動かないものだ。
コロナは肉親の死に目に立ち合えない現実を私たちに突きつけた。これに勝る悲哀がほかにあろうか?それを思えば、由来も定かでない行事や習俗を廃めることなどは、個人にとって些かも苦難を強いるものではない。
一昔前の断捨離で私たちが再認識したのは、整理は廃棄を含む概念であることだ。捨てなければ解決しない。この国のマチやムラに漫然と生き残っている存在意義の不明な習俗・行事も、整理の対象にしなければ、後世の人々に負担をかけることになるだろう。始めあるものは、必ず終わりがあるものである。本来、事を始めた者には終わらせる義務がある。終わらせないから、無意味な行事・習俗でも、伝統の美名に紛れ、連綿と続く。
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