成人式を過ぎた若者たちを見ると、青春の活力に充ち溢れ洵に頼もしい。わが家の孫たちの2人も、既におとなである。恋愛は未だらしいが・・・
老爺にも若い頃があった。
異性の気を惹くに敏な厭ったらしい青年だったと、老妻は苦々しげに吐き捨てる。そんな風に見えていたのか?若者はおしなべてそういうものだと思うが・・・
老生だけが特異だったとは思えないが、彼女に言わせると、高齢になってもその癖が改っていないところが特異だと・・・
「三つ子の魂百まで」というではないか!
若い頃は、恋をすると相手を傷つけたり自分が些細なことで傷つくことも多い。自意識過剰なくせに自信がないからそうなるようだ。そうして大抵の若者は、いくつかの失恋を経験する。
逆説的なことを述べるようだが、恋愛では、相手の気持ちを斟酌しないことが大切である。現実に相手が表明しているものだけ、見えるもの聴こえるものだけに集中し、一切の想像力に蓋をするのが、恋を幸福なものにする。
あれこれ相手の気持ちを推し量ろうとするのは徒労であるし無益である。
「人の心はブラックボックス」という言葉がある。人の心というものは、けっして他人に知ることはできないものだ。まして恋愛の当事者の心は揺れ動いているもので、本人自身ですら自覚は覚束ない。したがって、恋人の心を自分の頭と心で押し量ろうとすると、誤解・曲解を免れない。揣摩臆測は恋の敵である。
恋愛中は、想像力を発動させないよう固く封じ込め、現実だけに意識を集中すべきである。それが恋愛を幸福に導く唯一の方法かと思う。
「好き」という感情は、自分では制御不能なものである。恋情を抱くとその当人は本能的に冷静さを失う。その状態に陥った人が、相手の心中を的確に理解することなど絶対にできないと識るべきである。
恋の渦中にある時は、好きな相手の心を知りたいものだが、とうてい掴める筈もないことを識って欲しい。
相手の自分に対する心を想えば、千々に心が乱れるのが普通であるが、心の乱れは傷ついたり傷つける原因になる。恋を不幸にしないためには、推し量ることを止めなければいけない。やるせない切ないのは、相手の心を推し量ろうとするから生じる感情である。
「幸福は外に顕れる」という。相手が自分と共にいる時に幸福に見えていたら、表情や態度、仕草や行動に嬉しさが溢れていたら、何を今さら知る必要があるだろう。自分も相手にそう見えているか、顧みることの方が大切である。
老爺が今更こんなことを気づいても遅すぎる。これは情熱の熱源が冷えたから識ったことである。情熱の焔が熾んなときは、なかなか抑制が効くものではない。人は恋をすると「親も要らなければ同胞(はらから)も要らない」となるものである。恋人だけが世界で一番大切な存在になって仕舞うのである。何を言っても聴いてはくれまい。
老爺の戯言、若者たちは一笑に付すだけだろう。
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