若い頃の悩みは、老後の平穏と対極にあるものではないかと思う。若い時分に、この世の不条理を知り、大いに悩んで、物事の本質を見る目を養なうことは、老後の憂いや煩いを軽くするものと信じている。
悩みというものは、人が円熟するために欠かせないもののようだ。悩んでいる間は不毛で何も生まないが、将来に備えて、土を耕している作業中と見てよいのではないか?
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という教訓は、苦労を心労=悩みと読み変えるなら、今日も生きているはずだ。
若い時は、前が見えない不安と若さ故の不明と傲慢から、判断を誤ったり短慮に過ぎて、批判を招くことが多い。したがって社会との軋轢も生じやすく、悩みの種は尽きない。その時期に悩むことは、人にとってある意味充電の時である。
悩むことによって、人は考える力が養われ賢くなる。観察も鋭くなる。学習では決して得られない、生きるための知恵を得る時かと思う。
悩みの無い恵まれた環境にある若者には、旅に出ることを推奨したい。それもtravelの語源(産みの苦しみ)どおりの旅、困難を伴う単独の旅でなければ意味がない。名所巡りやグルメなどの観光・行楽の旅やツアー旅行は以ての外。旅先で人々の生活と自然の造形美に触れることが望ましい。
山歩きや徒歩旅行などは若者に最も適した旅だと思う。自転車の旅も季節によっては好適だ。要は困難を伴う旅をすることが肝要である。安楽な行程から若者が得るものに、大したものはない。
ヨーロッパには近世以来、一般市民の間に、子弟を国外の旅に出す風習があるらしい。わが子に、見聞を広め言語を学び異国の社会と自然を知る時間を与えようとするその伝統は、今日も汎く欧米人の教育観念の中に生きているようだ。今で謂う国際性を身に付けさせることに主眼が置かれていたのだろう。
欧米の大学で普遍のギャップ・イヤー(gap year)はこれを制度化したものだろうか?明らかに卒業旅行とは違う目的があるようだ。
旅の目的の大半が行楽・観光にある日本社会では、大学がギャップイヤーを導入しても制度にまではならないだろう。
明治以来の箔付け目的の洋行には、子弟に敢えて困難を体験させるというような遠大な思想などなく、専ら先進知識を吸収して人に抜きん出る実利目的の旅だった。
一般的に人は45歳前後を人生のピークと見るようだ。頂きに達すれば、展望が開け先が見えて来る。成人して25年も社会経験を積めば、判断に悩まなくなる年頃である。その時点で、人は岐路を迎える。
悩み多い時を過ごした人たちの歩むのは、穏やかな成熟に向かう途だろう。悩みの軽く寡なかった人たちの辿る途には、未知との遭遇が避けられない。
青春を謳歌したり、目標の達成に邁進している時には、人は省察などしないし悩まないものである。
人間は自己を顧みて初めて悩むのであって、自省する人は悩みが絶えないものである。将来に備え、精神に弾力性があり、身体に活力があるうちに、様々なことに悩んでおくのが望ましい。
親たちは、子弟に悩みのない明朗快活な生活を望みレールを敷く。それは子弟の為でなく、実は親の安心の為である。親たる者、「贔屓の引き倒し」を自戒しなければならない。個人の幸福は、その個人自身の能力と努力で掴むものである。
若い時に悩みの無い生活を満喫できたことは、ある意味で、自分自身の成長に不利益をもたらしていたのかもしれないと疑うのが正しいだろう。老後の穏やかな心境というものは、若い時分の悩みの多寡と、深いところで繋がっているように思えてならない。
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