道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

勘違い

2025年03月09日 | 人文考察
私は読書を否定する者ではないが、この国が漢籍の学習を始めて以来の長きに亘り持続されて来た、日本人の読書の偏重には、些か違和感を覚える。

某評論家の記事を読んでいたら、こんな思いが浮かんできた。
読書家は、作家を身近に感ずるものである。愛読しているうちに、一体感を覚えるまでに成る。
読むことに長けた人は、読んで吸収した知識を自家薬籠中のものとし、それを当然としているうちに、他人の思想を借用または活用することに狎れ、自己の思考の所産と錯覚して混用・混同することがどうしても避けられないようである。それが常態化すると、自分で思考・思索することが疎かになるに違いない。そしてそのことの弊害に気づかなくなってしまうのが怖い。

他人の思想を借り続けていれば、人は自ら考えることを無意識のうちに減らし疎かにすることを免れない。それは、借りる方が産むより遥かに易しいからである。易きに流れるのは、勉強家といえども例外ではない。
言論界というところも、玉石混淆の場であることは世間一般と変わらない。
評論家だから皆優れている訳ではない。

彼は書物に毒された人と言うべきである。
書物を読み過ぎると、当人の頭の中は他人の考えでいっぱいになり、自分の考えを紡ぐことができなくなる。読書も過ぎれば、それに毒されるということが起こって当然かと思う。

本を読み過ぎる害とは、自分で思索しなくことに尽きる。
人の頭脳の所産を吸収することに熱心な余り、自分の頭脳で産んだものが相対的に減少することは避けられないだろう。脳の生理機能を考えれば、それは明らかだろう。記憶領域が過大に機能すれば、演算(思考)領域の機能が抑制されるのが当然かと思う。そのことに気づかないということが、問題である。

書物を読みすぎると、考える遑が無くなることを多くの人は知らない。それほどに沢山本を読む人は、世間に多くないからだ。多読家と聞いただけで恐れ入ってしまう。多読家の自負心は募るばかりである。

多読家は若い頃、読むことに急である余り、考えることに迂闊であったに違いない。自分の頭で産み出した考えの量は、読んだ量の100分の1にも及ばないだろう。ご当人が言っていることと書いていることの中身が、実は他人のものであることを忘れ、大手を振って言論界を渡り歩くことになる。殆どの人が、知的興味を書物に集中した結果、自らの知的生産力を犠牲にしてしまう。

自然科学が観察と実験から始まるように、人文科学は考察と体験が欠かせない。もしかすると読書家というものは、考察と体験の手順を省いて、読書を以てこの世界を短兵急に理解しようとしている人たちの謂ではないか?
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