愛知県の通称奥三河と呼ばれる地域は、30代からの釣りや山歩き、そして植物観察や史跡探訪などで度々訪れているが、この作手だけは2回通過しただけで、私の頭の中の奥三河地図では空白になっていた。
作手高原は標高550m前後の平原を比高50mから150m前後の丘陵が囲う隆起準平原で、単純化するとタルトのような形といえる。四囲の丘陵は高原の外の平野から見ると、標高600mから700mの峰の連なりで、その先に牧歌的な平原があろうとは思えない。往古作手に入った旅人は、桃源郷を想ったことだろう。
ヘヤピンカーブの続く道を登りきって平原に出ると、よく手入れされた暗緑色の針葉樹林を背景に、落葉広葉樹の濃淡入り混じった若葉が眩しく輝いていた。
500m下の新城市街では自生を見ないウワミズザクラの花をあちこちで見かけるのも、この高原が温帯落葉樹林帯であることを示すものだ。近年浜松の近郊の里山では、温暖化と手入れ不足のせいかカシ・シイ・クス類の照葉樹が勢威を振るい、クヌギ・コナラなどの落葉樹を圧倒している。しかし年間の平均気温が12.5℃と仙台市のそれとほとんど変わらない作手では、それらの照葉樹はほとんど見られず、山裾の林縁や道脇の平地は落葉広葉樹の領分になっている。気候はほぼ東北の平野に近いのだろう。
作手は、武田氏との長篠城攻防戦で勇名を馳せた城将、奥平貞昌(後に信長の一字をもらって信昌)の先祖5代にわたる本拠地で、累代亀山城に拠りこの地を治めていた。長篠戦後、貞昌は栄進して作手には戻らなかった。亀山城には、土塁と空堀で区切られた本丸、二の丸その他の曲輪だけが遺っている。
道の駅に立ち寄ったら、今が採れどきのワラビ、ウド、モミジガサ(シドケ)、フキなど旬の山菜が並んでいた。シドケは前に東北の知人が送ってくれたことがあって、おひたしや天ぷらにして食べたことがある。ホウレンソウのおひたしが嫌いな私でも、シドケのおひたしならいくらでも食べることができた。この土地では準野菜の扱いを受けているようで、スーパーの野菜売り場でビニール袋入りを沢山売っていた。それだけ秀れた山菜だと思う。作手土産はモミジガサと決めた。
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