道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

時代相

2018年04月03日 | 随想
人はどんなに学問をし教養を積んでも、聡明になれるとは限らない。知識は学習で積み上げることができるが、知恵=知性は天賦のものである。
 

無知無学であっても、知恵ある人は無数に居る。学識があっても知恵の乏しい人も多い。一番糾さなければならないのは、高等教育を受けることで、自他共に高等と信じ込んでしまう、世の悪弊だろう。

learn「学習」とstudy「考究」の違いは厳しく弁別されなければならない。どちらに天賦の才が必要かは明白だ。聡明即ち知性ある人がこの世に少ないのは、それが天稟のものであるからだろう。芸術やスポーツの稀有の才能も、稟性によるものが大きい。勉強、努力、鍛錬ではどうにもならない、生得の能力というものがある。

近代化して150年、奮励努力を金科玉条としてきたこの国でも、学識万能・努力至上主義が神話であることに気づき始めている。

科学技術全般、政治・経済、産業社会の知見が前世紀に較べて爆発的に増大し、あらゆる物事の変化が急速になった今日、人が脳内の記憶領域に蓄えた知識の実用性は相対的に減少する。

知識の陳腐化のスピードは、速くなる一方だ。変化の早い社会では、知識は日々バージョン・アップを迫られるものであり、バージョン・アップを怠った知識は実用に適さない無用のものになる。

こうなると、旧来の知識伝授の方法、即ち日本の大学教育も見直されることになるだろう。西欧文明導入に明け暮れた開化の時代とは違う。

知識の伝導者が学生に教えているうちに、その知識は短期間で陳腐な時代遅れのものになることもある。有用な先端知識ほど足が速い。教える者にとって知識の更新は欠かせない。教授が院生、学生と同列で未修の新知識を学ぶ姿は、この国でも否応なく当たり前になってくるだろう。

世に認められた大先生と雖も、自らの知識の更新を怠れば、それは直ちに論文や講義に顕れ、研究者、教育者としての適格性を失ってしまう。事は大学にとどまらず、一般社会もその状況に追随するだろう。

ビジネスマンも、淘汰を免れるには、自らの知識の頻繁な更新が欠せない。役職に安住し自己研鑽を怠れば、早晩企業内外での存在価値を失うことになるだろう。

社会の成員の全てにわたって、たゆまぬ学習が欠かせなくなる。成功の美酒に酔ったり、故郷に錦を飾る遑はなく、生涯にわたり研鑽を続けなければ蹤いて行けない。名聞心は、妨げにこそなれ力にはならない。

このような社会は、ある意味健康で自然な社会であって、良い方向に向かって行くのではないかと思う。研鑽を怠りコネクションづくりに汲々として世を渡り権勢に阿る人たちには、生きづらい世の中になるだろう。

科挙の試験さえ突破すれば、その後は身分安泰に一生を過ごせた社会が、中国では隋代から清代まで1300年も続いた。王権の存続を図って秀才を募り、官吏に登用して庶民を誅求搾取する制度は、歴代中国王朝の基本政体だった。

その制度を模倣したのがこの国の古代律令国家だが、それは早い時期に一度廃れた。実力主義の武士の台頭が、中国式の官僚登用制度の存続を許さなかったのだ。

明治になって幕藩封建体制が崩壊し、王政復古を鼓吹する権力が成立したとき、再び王権を確立する必要が生じ、官吏登用は過去に採用された科挙試験に似た制度を復活することになった。

制度は変えられても身分意識は急に変わらない。意識に関わる制度は、古例に倣うのが人々にはわかりやすい。欧米をモデルに東大を頂点とする帝国大学が設置され、文官高等試験なる高級官吏登用のコースが敷かれた。官吏にならずとも、帝大に合格すれば生涯安泰と考えるお伽話は、旧幕時代の身分意識の延長として引き継がれた。

近代国家になったものの、人材登用のルートは単線化し、旧の幕藩時代よりも明らかに幅が狭められた。その制度は現代まで続いている。だが、今やそれでは立ち行かないことに、誰もが気付き始めている。

学問は決して将来を保証する手段ではなく、本来狭く閉ざされた茨の道である筈だ。そうでなければそれは正しい学問研究の道とは言えない。その専攻する学問が三度の飯より好きでなければ、困難で地道な研究に耐えることはできないだろう。

学力は学問するための必要条件だが十分条件ではない。偏差値が高いからといって学者になれる訳ではない。学者に成るには適性の方が遥かに重要であろう。

本当の学問の歴史が浅いが故に、学術への理解が真実のところ乏しかった社会は、今変革を迫られている。人文科学不要論とか、人文系学部の廃止案など、およそ聡明さを欠く暴論が出てくる間は、この国の学術環境は良くはならない。

今の日本に最も欠けているものが人文科学であるとの認識は、広く世の中に共有されなければならない。

知識の更新と集合知の活用は一体のものであり、もはやそれなしでは、個人も組織も立ち行かなくなっている・・・

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