寛容性(tolerance)を徳の第一義と考える民族が築いた社会と対極にある社会を、私たちは2000年も変えることなく営んできた。同質性への偏り、つまり個々人が異質を受け入れたくない気質を保有していることが、この国が過去に本当の革新を果たしてこなかった最大の理由だろう。
理解の物差しは、その社会の構成員に共有されるものでなければならない。その物差しで測れないものは排除されるか無視されるのが普通だ。同質の枠のなかで競い合うことに長い間馴らされると、異質なものに対して良否優劣の判断がつかなくなる。これでは、多様な才能の集団=チームは編成できない。右も左も同質等質の集団=グループばかりとなる。
江戸末期の幕府がその見本で、新しい事態に的確に対処する組織をつくれないから、優れた個人の能力に依存するばかり、組織として対応できないソリューションは、政権にとって弥縫策でしかない。結果としてその対策は最終的に失敗し、幕府は瓦解した。
構成員の異質性を容認し合うのでなければ、機能集団たるチームはつくれないことは誰もが分かっている。だが、この著名な米国生まれのentrepreneurが、どんなに熱心に大学や大学院で講義を累ね学生達を鼓舞しても、残念ながら日本では異質を認め異能を活用する米国社会のようには変わらないだろう。
米国では、エリートほどスタート・アップから始めようとしたがる傾向があると彼が講演で語ったら、日本のエリート学生達はまったく理解できない反応を示したという。我が国でベンチャービジネスが笛吹けども踊らずの気味がある要因のひとつだろう。彼我のエリートの思考・行動の差異は、社会風土の違いで片付けられるものでなく、精神風土の違いに由来するものであることを重視し、然るべき対応策がとられなければ、秀れたイノベーターの卵たちは、海外に流出してしまうだろう。
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