道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

前例踏襲と無謬信仰の源流

2024年10月07日 | 人文考察
世の中は優勝劣敗、リスクに充ち満ちている。となると、8割の人はこの世を無難に渡るために、リスクを取らない処世を身につけようとするかリスクを回避する方法の習得に腐心する。リスク管理などという、尤もらしい言葉も生まれる。

予測できるリスクに対してならそれで好いが、予測できないリスクに対してはどう対処したら好いのだろう。
予測可能なリスクなどたかが知れている。予測不能なリスクがあるから、世渡りが怖いのではないか。

手に負えないことは、神仏に祈るか衆を恃んで多勢で突破するしかない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。人間は多勢と一緒なら、過酷な運命でも、甘受できる生き物である。
初詣の人出は、如実に大衆の心情を顕している。人は誰もが、リスクから逃れる術をもたないということを知っているのである。

ならばリスク回避に汲々としないで、敢てリスクを使命と心得て世を渡る生き方があって好いのではないか?リスクに怯えない生き方は潔く、きっと清々しいことだろう。

リスクが現実になると、私たちはピンチに陥る。この時々のピンチを、どう切り抜けるかの覚悟が、リスクへの備えとして重要になってくる。
ピンチを切り抜ける用意が有りさえすれば、リスクを必要以上に虞れることはないのではないか?その用意とは、その人がそれまでの人生で蓄えた凡ゆる知識・経験とノウハウの総合されたもの、とでもいうほかはない。
「寄らば大樹の陰」だったり、「事大主義」に埋没していては、決して身に付かないものである。

新しい分野の開拓は、全てが未知のことばかり、既知に安住していては道は拓けない。全知全能を傾けて初めて成功する。それでも、失敗することはある。失敗したら、敗因に学んで自分を現実により一層近づけていくことが大切だと思う。

未知を虞れる人は、手垢に塗れた前例という名過去の成功事例に拠って対処しようとする。「前例踏襲主義」というようなものが世に蔓延する所以である。前例が現下の事態とどんなに酷似していようとも、その事態を取り巻く状況や環境は前例とは全く異なる。過去の成功事案を踏襲しても成功はほとんど期待できないものである。それでも前例踏襲策で切り抜けようとするのは、未経験のことには不安が付き纏うので、前例に依拠することで安心を得たいからである。また前例は、人々への説得には便利である。

前例を採用して失敗しても、前例の成功者に責任転嫁し言い訳の根拠にすることができる(本当はできないものなのだが)ので、前例踏襲の弊習は、組織からなかなか排除できない。
前例踏襲は、一言でいえば無能無策の結論と言っても過言ではない。前例踏襲主義から発信され指示される命令に、有功なものが少なくなるのは当然であろう。
もし人に妙案良策があるならば、その人はそれを試して見たいはず、アイデアがないから前例踏襲に奔るのである。機略縦横の人なら、前例を踏襲する必要は無い。

大河ドラマを観ていると、千年も前の王朝時代から、権威ある統治機構は前例踏襲で凝り固まっていたことが伝わってくる。
この時代には、中国から日本の統治機構に、権威者・権力者の謬性信じこませる文化が目白押しに流入した。権威・権力のあるところ、おしなべて前例踏襲主義無謬性信仰が蔓延ったに違いない。

無謬性信仰とは、上位者の絶対無謬ということであって、上位者から見て誤謬の塊の下位者は、上位者の過ちや誤りを押し付けられる存在である。現在の官僚機構の「無謬性の原則」は、この時代に出来上がっていたと見て差し支え無さそうだ。王朝時代であろうと現代であろうと、人の考えることは何も変わっていない。


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