
近江の歴史・文化遺産が、日本の歴史、文化、社会、宗教を知る上で重要な鍵であることに遅ればせながら気づき、月に一度、日帰りで滋賀県内の古跡や博物館・資料館をめぐるようになった。
「古代渡来人と近江の歴史」に的を絞り、資料を予習しては滋賀県内のフィールドに通う。往き復りの電車の乗り換えなどアクセスにも馴れ、土地の味覚にも通じてきた。
有名な観光史跡は、資料やパンフレット類が豊富で来訪客も多く混み合う。世に汎く知られた旧跡は後回しにして、先ずはあまり人が訪れない辺鄙な地域の古墳とか、古社寺、古城などの史跡を適宜目的地に選び、ゆっくり時間をかけて視察する。
アクセスに時間(往復8時間)をとられるから、探訪先は3箇所を超えることはない。

井伊谷宮
鉄道駅を降りた後は、できるだけ徒歩で目的地へ行く。歩行が16kmに及ぶ日もあった。
行路で目に触れるものには、興味を惹く風景や関心を呼ぶ事物があったりするから、歩く区間は単なる移動と考えないで歩く。道草を喰う事も多い。歩くことは歴史探索の基本、昔の人の視界や行動を理解するには、徒歩に勝るものはない。
旅は点(目的地)と線(行程)とに同等の価値があると常々思っているから、行程も等閑にはしない。「東海道中膝栗毛」の面白さは、道中(行程)にある。行路の至る所に興味を喚起させるモノやコトが満ちている。乗り物で同席の乗客、立ち寄った店、道を尋ねた人など、偶発は常に計画を凌駕し、旅を実り豊かなものにする。
子供の頃の学校の帰り途、仲間とよく道草を喰った。目的への行程を、意義のない無駄な時間と見做さない癖は、その頃身についたのだろう。
浜松と大津との距離は約200km。琵琶湖一周の距離とほぼ等しい。湖水に接する津々や浦々には、近代の開発の手から免れたところも多く、古代から連続性を保って存在する集落や街衢は、今日の日本ではすこぶる貴重な存在に思える。
初めての東京オリンピック後の、新しいものを無闇に有難がる拝新主義とでもいうようなエネルギーが、国中を開発や再開発だらけにした。どこへ行っても、似たような街並みやショッピングモール。それらを見慣れた目には、山麓や岬の間にひっそりと神社を抱いて甍を寄せ合う集落の佇まいは却って新鮮で、心が和み洗われる心地がする。遠い祖先の感覚が呼び覚まされるのだろうか。
山国では、尾根筋の高みに古くからの生活道がめぐり、各集落はその道筋に点在していた。湖国では、湊のある浦々が湖の航路で繋がり自在に行き来できた。舟という移動と運搬両用の利器を使いこなす生活は、自ずと文化の発達と富の増大をもたらし、社会を発展させてきた。その足跡は、近江の彼方此方に遺る。
淡海(おうみ)と呼ばれる淡水湖を共に国内に抱き、古代から「近つ淡海の国」と「遠つ淡海の国」と対比されてきてはいても、当時の先進地域近江と僻鄒の東国遠江では、文化の質と量に決定的な差があり、それは現代にまで続いている。文化はおいそれと簡単に移入したり追い越すことはできない。
一方は畿内の外とはいえ、文化、経済、政治の中心地たる京師に隣接し、琵琶湖の水運はじめ官道整備による陸路が国中を複数縦貫していた。宿駅、湊、市場など交易の拠点も多く、峠をひとつ越えれば、大陸と往来できる海港があり、情報は早く届き移動は容易、地の利の優位は大きい。したがって早い時代から知識と技術を持った渡来人の移住が進み、高い文化と多様な生産物が国力を高め、当時の最も拓けた先進地域と看做されていた。
行路で目に触れるものには、興味を惹く風景や関心を呼ぶ事物があったりするから、歩く区間は単なる移動と考えないで歩く。道草を喰う事も多い。歩くことは歴史探索の基本、昔の人の視界や行動を理解するには、徒歩に勝るものはない。
旅は点(目的地)と線(行程)とに同等の価値があると常々思っているから、行程も等閑にはしない。「東海道中膝栗毛」の面白さは、道中(行程)にある。行路の至る所に興味を喚起させるモノやコトが満ちている。乗り物で同席の乗客、立ち寄った店、道を尋ねた人など、偶発は常に計画を凌駕し、旅を実り豊かなものにする。
子供の頃の学校の帰り途、仲間とよく道草を喰った。目的への行程を、意義のない無駄な時間と見做さない癖は、その頃身についたのだろう。
浜松と大津との距離は約200km。琵琶湖一周の距離とほぼ等しい。湖水に接する津々や浦々には、近代の開発の手から免れたところも多く、古代から連続性を保って存在する集落や街衢は、今日の日本ではすこぶる貴重な存在に思える。
初めての東京オリンピック後の、新しいものを無闇に有難がる拝新主義とでもいうようなエネルギーが、国中を開発や再開発だらけにした。どこへ行っても、似たような街並みやショッピングモール。それらを見慣れた目には、山麓や岬の間にひっそりと神社を抱いて甍を寄せ合う集落の佇まいは却って新鮮で、心が和み洗われる心地がする。遠い祖先の感覚が呼び覚まされるのだろうか。
山国では、尾根筋の高みに古くからの生活道がめぐり、各集落はその道筋に点在していた。湖国では、湊のある浦々が湖の航路で繋がり自在に行き来できた。舟という移動と運搬両用の利器を使いこなす生活は、自ずと文化の発達と富の増大をもたらし、社会を発展させてきた。その足跡は、近江の彼方此方に遺る。
淡海(おうみ)と呼ばれる淡水湖を共に国内に抱き、古代から「近つ淡海の国」と「遠つ淡海の国」と対比されてきてはいても、当時の先進地域近江と僻鄒の東国遠江では、文化の質と量に決定的な差があり、それは現代にまで続いている。文化はおいそれと簡単に移入したり追い越すことはできない。
一方は畿内の外とはいえ、文化、経済、政治の中心地たる京師に隣接し、琵琶湖の水運はじめ官道整備による陸路が国中を複数縦貫していた。宿駅、湊、市場など交易の拠点も多く、峠をひとつ越えれば、大陸と往来できる海港があり、情報は早く届き移動は容易、地の利の優位は大きい。したがって早い時代から知識と技術を持った渡来人の移住が進み、高い文化と多様な生産物が国力を高め、当時の最も拓けた先進地域と看做されていた。
片や遠江は畿内から見れば東国の一部。米の生産高も低く他の特産品も乏しい。律令時代から遠江以東は防人の供出を担うだけの辺鄙の地だった。
古代近江に始まる歴史の厚みとその遺産の重みを知れば知るほど、現代に至る彼我の地域性の差異が克明に浮きあがる。
いかに徳川家康の恩顧と期待による配慮があったにせよ、井伊直政が代々の本貫地井伊谷に執着することなく、菩提寺龍潭寺を移してまで、近江彦根の城地整備に熱心であったことは意味深い。単なる栄達の通過点や軍事上の拠点ではなく、子々孫々の代までの繁栄を保障する、他に比類のない領地であると、直政は確信していたに違いない。
古代近江に始まる歴史の厚みとその遺産の重みを知れば知るほど、現代に至る彼我の地域性の差異が克明に浮きあがる。
いかに徳川家康の恩顧と期待による配慮があったにせよ、井伊直政が代々の本貫地井伊谷に執着することなく、菩提寺龍潭寺を移してまで、近江彦根の城地整備に熱心であったことは意味深い。単なる栄達の通過点や軍事上の拠点ではなく、子々孫々の代までの繁栄を保障する、他に比類のない領地であると、直政は確信していたに違いない。

井伊谷宮
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