道々の枝折

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近江の歴史探索行【近江西南部渉猟(和邇・小野・堅田)】

2018年08月29日 | 近江の歴史探索行

冷房の効いた列車内からホームに降り立った途端、湿気を帯びた熱気に包まれた。ヒートショックだろうか、眩暈と頭痛がする。

JR湖西線和邇(わに)駅、今日(822日)の〈近江古代歴史探索〉は、初めて下車したこの耳慣れない名の駅から始まる。

駅の近辺に観光案内所が見当たらないので、和邇町立図書館に立ち寄り情報・資料を収集する。目的の小野神社・篁(たかむら)神社その他の神社や古墳群は、南隣のJR湖西線小野駅まで、徒歩2時間半のハイキングコース上に点在しているらしい。湖面との比高25mほどの街道からは時々湖水が垣間見え、東岸の景観も眺望できる。

和邇川に架かる橋を渡ると、橋詰に上品寺(じょうほんじ)という古刹が在った。寺の白壁の角を西に折れ100mほど進むと杜が見え、鳥居が目に入った。鳥居の手前脇に〈ムクロジ〉の巨木が屹立していた。



【小野神社】と【小野篁神社】は境内を共にし、それぞれ初期の神社建築を想わせる簡素な造りの本殿が在った。

小野神社は、大和朝廷成立以前の渡来氏族和邇氏から派生した小野氏の氏神で、祭神は孝昭天皇の第一皇子〈天足彦国押人命アメタラシヒコクニオシヒトノミコト〉、近江国造の祖であるという。当然和邇氏の始祖も天足彦国押人命である。その七世の孫が〈米餅搗大使主命タガネツキオホオミノミコト〉で、同じ社に二神が祭神として祀られていた。

〈米餅搗大使主命タガネツキノオホオミノミコト〉は我が国で初めて餅の原形、粢(しとぎ)を創った人と由緒書きにある。その縁をもって今日まで、製菓の神と崇められているらしい。

「米餅搗」を(タガネツキ)と読ませているのが、私の歴史詮索趣味を唆った。タガネツキとは鏨衝き、すなわち「鏨」を「衝」く人、石工のことではないか?鏨は岩石を斫り割り穿つ鉄製工具だ。どうやら、この神社は鉄と関係が深そうだ。和邇氏は鉄の生産で勢威を振るい、琵琶湖の東岸米原付近に勢力を張った〈豪族・息長氏〉と並び多くの王妃を出している。息長氏も鉄との関係が深いという。

直ぐに坂本駅近くの穴太(あのう)に本拠を置いた【穴太衆(あのうしゅう】が脳裏をよぎった。もしかして、小野神社の祭神のひとりは、石工集団の祖神ではなかったか?

〈米餅搗〉はどう読んでもタガネツキとは読めない。作業する姿形が餅を搗くそれに似ていることから、後世に付会した読み方ではないだろうか?職能集団が始祖を皇統に仰ぐのはよく知られている。

東流する和邇川を挟んで右岸=南の領域は小野氏の、左岸北側の地は和邇氏の本拠地と伝えられている。両者は祖神〈天足彦国押人命アメタラシヒコクニオシヒトノミコト〉を共にする同族で、和邇氏はそもそも大和に地名を遺す〈大和邇氏〉が本流、小野氏はそこから派生した一派であったらしい。

この古代氏族は、此の地に渡来したとき、当時先進の大陸の学問、芸術・製鉄・鍛鉄・造船・漁業・織物など、様々な知識・技術を身につけた集団から成っていたことが知られている。百済経由の漢人系氏族〈漢氏〉であったらしい。

琵琶湖西岸は、律令以前の早い時期から、渡来氏族が進出していた。それはおそらく、弥生期に始まるのではないかと見られている。

和邇氏の領域の北、安曇川(あどがわ)流域には三尾氏(水尾氏)という、これも有力な渡来系氏族が居た。

この氏族は和邇氏と始祖を異にし、湖の対岸、坂田郡の天野川流域に本拠地を置く息長(おきなが)氏と関係が深かったようだ。

【穴太(あのう)衆積み】の石垣づくりで知られる穴太衆が、滋賀漢人系の渡来人であったらしいことも、単なる偶然ではないだろう。日吉神社・延暦寺の石垣や坂本の石築地、〈堅田かたた〉の掘割や船入を構築した穴太の工人たちの石割り・石材切削・石積みの技は、勝れた(タガネ)の製造技術と独占的な供給なしには実現しなかっただろう。つまり、鍛鉄の技術に卓れた鍛冶集団との結びつきがあって初めて、高度な石材加工や石垣積みは可能になる。穴太の石積み技術は、製鉄・鍛治という渡来人の先進技術の基盤があって、湖西の地で開花したものと考えられる。

また、鏨(タガネ)同様強靭な舟釘が堅田に供給されなければ、堅田の水運・漁業に不可欠な造船技術は発展していなかっただろう。産鉄・製鉄・鍛鉄などの冶金・鍛治と、石工・木工のネットワークが、古代の琵琶湖西岸に整っていたことが、中世から近世にかけて琵琶湖や畿内の繁栄の基盤になっていたことが窺われる。

小野氏は飛鳥時代、遣隋使小野妹子が出て繁衍し、奈良時代から平安時代にかけて、外交官・行政官・軍人・学者・芸術家を多数輩出している。後に遣唐副使小野篁を出し、その孫に書家の小野道風そして歌人小野小町へと系譜は繋がっている。

小野駅まで歩く間に、〈石上神社〉〈石神古墳群〉が在る。しかし古墳の内容は奥深く多岐にわたり、とても素人が瞥見して理解できるものではない。発掘調査の結果は県内の歴史博物館や考古博物館に整理収蔵されているから、後日確かめることにして現地を通過した。小野篁の孫、小野道風を祀る〈道風神社〉を最後に、〈唐臼山古墳〉も割愛して小野駅へと道を急いだ。

和邇川右岸から隆起して湖岸線と並行し、主峰曼荼羅山に続く丘陵の東斜面には、等高線に沿って小野氏に関係する夥しい古墳群がある。その最東端〈唐臼山古墳〉との間の、今は住宅団地になっている辺りに、小野氏の本拠地があったと考えられている。

小野駅に向かう舗装道は、夏の日差しに焼けて照り返しが強かった。昨年の819日に歩いた湖北の「深坂古道」には、森の小径に小川が流れ涼しい緑陰もあったが、今日は兎に角暑さが厳しく熱中症寸前、這々の体で小野駅にたどり着いた。丁度折良く来た電車に乗り、ひとつ南の堅田駅に下車する。ここは駅周辺が繁華で観光案内所もある。

〈堅田港〉への途中、休憩を兼ねて昼食を摂る。その後堅田の井然とした街衢を歩き周り、湖岸の浮御堂へ出た。古く〈堅田浦〉と呼ばれた〈堅田かたた〉は、琵琶湖の幅が最も狭まる地点に在り、延暦寺・日吉神社の坂本に隣接する。下鴨神社の御厨がおかれ、後に延暦寺の荘園になった。

堅田の住民には、それぞれの宗教権力から、関務権・上乗権・漁業権の特権が与えられていた。堅田は、中世から戦国期になるまで、不覊独立の自治権を守り抜いた我が国には珍しい自治都市だった。この地の人々は〈堅田衆〉と呼ばれ、惣村による自治組織をもち、漁業・水運・造船などで明治時代まで栄えた。

浄土真宗を開いた蓮如は、延暦寺の迫害を受け堅田の大福寺に保護を求めた。蓮如の教えを学び、そこから蓮如に従い越前に赴いた堅田の人々がいた。その人たちが吉崎御坊(現福井県あわら市)という自治都市(寺内町)の建設に与り、本願寺の再興に尽力したことは疑いない。


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