モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その40:ディオスコリデス ④ 推理:植物画を描かなかった理由

2008-04-08 10:19:21 | ときめきの植物雑学ノート

雨の日は、こんな昔物語の推理でも。 ただし、前編を読んでみて欲しいですが・・・・


ディオスコリデスの薬物誌には植物画がなかったが
何故なかったのかを資料から推理してみる。

1.ディオスコリデスは絵を描けなかった
前号(その39)にディオスコリデスの編集スタンスを記載したが、
ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』は、コピー(文章)で十分事足りる、
或いは文字で表現できるというディオスコリデスの強い意思を感じる。

この強い意志には、弱点が隠されているのかもわからない。
例えば、絵を描けないコンプレックスが、コピーに走らせたのかもしれない。
特に、クラテウアスほどの腕前で描けないので。

これは、“親愛なるアレイウス”ではじまるところから読み取れる。
意訳するとこうなる。
“私が薬物について書くのは、先輩達が完成させていないし、書かれた事に間違いがあるからだ。”
そしてここからがポイントだが
“薬草採集者クラテウアスや医師アンドレアスは、他の著者と較べるとより良い記述を行っている。
が、非常に有用な薬物(根類)を見逃している。
・・・・また不十分な記述を行っている・・・”

プラトン(紀元前427-347)、弟子のアリストテレス(紀元前384-322)は、
論理(ロゴス)を重視し、言葉でモノゴトを追求すべきとし、
感覚でとらえられる美・芸術は不完全で事物の模倣に過ぎないと価値を一段低く見た。

植物画を描かない背景として
この、プラトンのイディア論の影響もあるだろう。
そして先人のライバルであるクラテウアスの紹介は、
植物画には触れずに
医師よりもステータスが低く見られていた
野山を走り回って薬草を採取している薬草採集者(リゾットモス)として記載し、
彼は職人で私は違う。
だから私はロゴス優位を実践した。 
とでもいいたいのだろうか?

クラテウアスは、小さな王国の王専属の医者であることを知らないわけがない。
だから、こんなうがった見方をしたくなる。

2.コピーでの一点突破
もう一つの解釈は、
生死が記録されていない当時としては無名なディオスコリデスは、
素晴らしい植物画を描いた先輩クラテウアスに負けるわけにはいかない。
ましてや、植物学の父といわれるテオフラスタス(Theophrastus B.C371~287)の『植物誌』にも。

そこで、植物画を描くエネルギー・時間を
得意領域の有用な薬物のデータベースづくりに精力をかけたのだろう。
その植物一つ一つのコピーは、言葉の定義がはっきりしていれば
同じ植物を想定できるほど写実的かもしれない。

また、植物・薬物の紹介は、カタログ的で、体系がしっかりしていれば
1薬物1データとして検索・書き込みしやすく使い込み甲斐がある。
ディオスコリデスの写本には、所有者が変わるごとに様々な言語での書き込みがあるようだ。
時代・使用者によって足して行けるカタログだから15世紀まで持ったのかもしれない。

絵を取り込めるコンピューターの時代がはじまったのはつい最近であり、
数値と文字が中心の時代の論理的な透明感およびデータベース思考がディオスコリデスの著書から感じられる。
この点では、絵は付録で
つまり、幹がしっかりしていれば、職人による植物画が足されてもかまわない
ということなのだろう。
チャールズ・シンガー(Charles Singer 1876-1960)は、
『生物学の歴史A History of Biology:to about the year 1900』の中で、
ディオスコリデスの簡潔なコピーでも同定困難な植物があり、
彼が存命中にも植物画つきの写本が作られた。といっている。

テオフラスタスは名前すら挙げられず完全に無視されており、ここに彼の意図を感じる。
つまり、直接のライバルは、テオフラスタスで、
彼の弱いところ、個別の植物の説明力が弱いところを攻めたのでもあろうか?

さて、本当のところ、どうして植物画を描かなかったのだろう??

文字・音だけによる表現物は、ビジュアルの既定がないがゆえに様々に空想できる。
だからこそ、1500年も長持ちしたのだろが、
15世紀まで実物からの乖離による単純化・幼稚化していく植物画を見る限り、
ディオスコリデスの時から違った線路を走り始めたようだ。
或いは、プラトン、アリストテレスの引いた路線にディオスコリデスが乗ったがために
植物画の領域でクラテウアスを超えるのに、
レオナル・ド・ダヴィンチ以降まで待たなければならなくなった。

そして、一人の天才の出現に依存することなく継続性を持ちえたのは、
植物学者と画家と印刷事業家が出版事業プロジェクトを展開するようになってからである。

パーソナルコンピューターの初期の頃にも、ロゴス派(論理=文字・数字)と
パトス派(感性=静止画・音声・動画)との不毛な論争があったことを思い出す。
データ処理能力が大きくなったとたんにこの不毛な論争が解決した。
天才および印刷機が出現するまで課題を認識せずに統合も出来なかったのだろうか?

(続く)

<<ナチュラリストの流れ>>
・古代文明(中国・インド・エジプト)
・アリストテレス(紀元前384-322)『動物誌』ギリシャ
・テオプラストス(紀元前384-322)『植物誌』植物学の父 ギリシャ
・プリニウス(紀元23-79)『自然誌』ローマ
・ディオスコリデス(紀元1世紀頃)『薬物誌』西洋本草書の出発点、ローマ
⇒Here 1千年以上の時空を越えたディオスコリデス【その16】
⇒Here ディオスコリデス ②植物画がなかった疑問【その38】
⇒Here ディオスコリデス ③マテリア・メディアの編集スタイル【その39】
⇒Here ディオスコリデス ④推理:植物画を描かなかった理由【その40】
・イスラムの世界へ
⇒Here 地殻変動 ⇒ 知殻変動【その15】
⇒Here 西欧初の大学 ボローニアに誕生(1088)【その13】
⇒Here 黒死病(ペスト)(1347)【その10】
・グーテンベルク 活版印刷技術(合金製の活字と油性インク使用)を実用化(1447年)
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)イタリア
⇒Here コロンブスアメリカ新大陸に到着(1492)【その4~8】
⇒Here ルネッサンス庭園【その11】
⇒Here パドヴァ植物園(1545)世界最古の研究目的の大学付属植物園【その12】
⇒Here 『草本書の時代』(16世紀ドイツ中心に発展)【その17、その18】
⇒Here レオンハルト・フックス(1501-1566)『植物誌』本草書の手本。ドイツ【その18】
⇒Here 『草本書の時代』(ヨーロッパ周辺国に浸透)【その19】
⇒Here フランシスコ・エルナンデス メキシコの自然誌を発表(1578)【その31】
・李時珍(りじちん 1518-1583)『本草網目』日本への影響大、中国
⇒Here 花卉画の誕生(1606年) 【その1~3】
⇒Here 魔女狩りのピーク(1600年代)【その14】


コメント