北見市内を東に散策していくと、なにげにこのような史跡に巡り合える。
自由民権運動家
『井上伝蔵葬儀執行の寺』
明治十七年〔一八八四年〕秩父事件の中心的人物であった井上伝蔵は、政府の執ような追求を逃れコツ然と秩父地方から姿を消し逃亡死刑囚の身となったのである。
大正七年(一九一八年)六月二十三日に野付牛町(現北見市)で伊藤房次郎なる人物が家族に見守られながら他界した。
この房次郎ここそ三十五年間逃亡死刑囚としで身を隠し続けていた井上伝蔵であり享年六十五才であった。
井上伝蔵は秩父事件の敗北後、下吉田村(現埼玉県吉田町)のある家の土蔵で二年間身を潜め、その後明治二十年秋渡道し、以後石狩・札幌を経て明治四十五年(一九一二年)の春野付牛町に住まいを定めた。
伝蔵はその後古物商を営んではいたがあまり店にも出ず深く潜伏していたようである。
伊藤房次郎が井上伝蔵であると判明したのは本人の遺言からであり、それまでは籍の入っていなかった妻も子供も知らぬ事であった。
葬儀は当聖徳寺の住職三林遵護師の特別のはからいで執行され、また院号も贈られ過去帳にも特記される事となった。
『大正七年六月廿三日
彰神院釈重誓
一条通り 高浜道具店
井上伝蔵 六十五歳
長男 洋の実父なり
遵護取置
此人埼玉県秩父の人、明治十七年秩父事件の国事犯、逃亡北海道に入り後、死期に至って妻及び子洋に実を告ぐ』
当聖徳寺保存の過去帳の一部より
北見観光協会
「秩父颪」小池喜孝著
現在の聖徳寺跡(本寺は別な場所に移転している)
北見の人々は「国事犯」・「逃亡死刑囚」井上伝蔵に対し、実におおらかに対応していた。
当時北海道に渡ってくる者が、様々な過去の事情を抱えていることは皆同じであった。
また、井上伝蔵自身が死を予感して、地元新聞記者と懇意になっていたり、まさに忌のきわに妻子の戸籍を一気に整理して入籍させたりといろいろな準備をしていた。秩父蜂起から関東一斉蜂起をまき起こし、明治政府打倒という遠大な戦略を立てた井上らしい手際である。
35年間の逃亡生活を余儀なくされていたが、その心中には自由民権の熱い思いが貫かれており、遺言として実子や新聞記者を呼び寄せ、あるいは記念写真を撮らせ、「秩父事件」の真相と目指していたものを世に問いかける最後の戦いであった。
その思いは80年後に、民衆史研究家 小池喜孝氏により、より鮮明な記録として掘り起こされ世に放たれた。そして「秩父事件90周年」として、地元秩父の人たちと協力して見事に復権して行ったのである。
映画「草の乱」が有名である。
「十勝の活性化を考える会」会員 K