十勝開拓の父“依田勉三”は北海道十勝の開拓者。静岡県松崎町の豪農で三男して生まれた。彼は1853年生まれで、北海道開墾を目的として結成された「晩成社」の13戸27名を率いて、30歳の時に入植している。
晩成社の入植は、5年間にわたる空を真っ黒にするほどのイナゴの異常発生などにより困難を極め、晩成社の経営は上手く行かなかった。当時の帯広は、アイヌが10戸と和人が1戸あるのみであったという。
なお、全国的に有名になっている製菓メーカー㈱六花亭から発売されている。「マルセイバターサンド」や「ひとつ鍋」は、晩成社のエピソードをもとに作られている。なお、勉三は、“開墾のはじめは豚とひとつ鍋”の俳句を詠んだと言われる。
同じ晩成社3人の幹部であった渡辺勝は、幹部の鈴木重太郎の妹である鈴木カネと結婚している。当時カネは23歳のクリスチャン。横浜の女学校(現在の横浜共立学園)に学んだ才女で、「晩成社」の一員として十勝の開墾に従事している。
私塾も開いて入植者の子どもたちに読み書きを教え、帯広の教育の基礎を築いている。晩成社としての開拓は成功したとはいえないが、カネが子どもたちに施した教育は、十勝の住民に受け継がれ、「十勝開拓の母」とも呼ばれている。
先住民族であるアイヌたちとの親交を深めたことでも知られ、英語も流ちょうに話すことができ、訪れた外国人にビックリされたそうだ。昔の自分を捨てられない者もいる中でカネは、妻として母としてアイヌ民族の隣人として、自分の役割を果たしていく。
カネに印象的な言葉がある。「私たちの代が耐えて、この土地の捨て石になるつもりでやっていかなければ、この土地はそう簡単に私たちを受け入れてはくれない」と。覚悟とはこういうことで、最初の一鍬が今の帯広の礎になったことに間違いない。先の見えないコロナ禍の中、どこか「晩成社」の開拓者精神を思い出さざるを得ない。なお、作家 乃南アサの著「チーム・オベリベリ」は、渡辺カネの視点で書かれた小説である。
十勝には、“十勝モンロー主義”という言葉がある。この言葉は、“地産地消”と言いかえても良いだろう。自分たちの地は、自分たちで守っていこうというメッセージである。地元の有名なパン屋さんでは、十勝産小麦(キタノカオリなど)にこだわり輸入小麦を使っていないという。
地産地消とはこのようなことをいうのだろう。ソーシャルディスで人とのつながりを失いつつある中で、日本を再興させるために大切なことと思っている。
話は変わるが、依田勉三の血を引いている北海道が生んだ天才プロ棋士に“依田紀基九段”がいる。彼は、美唄市生まれの岩見沢市育ち。名人4期、碁聖6期、十段2期など合計35のタイトルを獲得し、近年の囲碁界では十指に入る実績を残している。
小学4年生の時に囲碁に出会い、1年後にプロを目指して上京。1980年、14歳でプロ棋士になっている。一方でギャンブルや酒が好きで、故・藤沢秀行先生に可愛がられていた“無頼派の天才”で、奇手や捨て石の名手でもある。晩成社の渡辺カネも捨て石になるつもりでやっていたそうだ。
プロ棋士にはもうひとり“さかな君”の父である宮沢吾郎プロ棋士もいる。十勝が生んだ天才の一人で、彼もタイトルを2回、NHK囲碁トーナメント戦で準決勝まで進出している。彼は小学生の時に全道チャンピンになり、当時の囲碁界の大御所である木谷実氏の「十勝で活きの良い鯛を釣ってきた」という言葉は、囲碁ファンには有名です。依田勉三と依田紀基九段、宮沢吾郎プロ棋士と“さかな君”、顔と性格がうりふたつで、血は争えないことをつくづく感じている。
「十勝の活性化を考える会」会員
注)原野を切り拓き、農業王国の礎を築いた立役者
(「晩成社」一同と依田勉三)
(出典:北海道観光振興機構のHPより)