「イカンノさんの事」
ピアソン会理事 玉置 義弘
ピアソン便り 第78 号 2018.2.5
ピアソン邸の横に建てられた日本家屋に息子の金太郎君と住み、ピアソン夫妻に「ideal servant(理想的な奉公人)」と評されたアイヌ婦人のイカンノさんは、ピアソン邸の家事全般を任されていたようです。しかし、彼女についての記録は少なく、一番古いものは、1910(明治43)年頃に旭川の近文コタンで撮影された彼女の結婚式の写真と思われます。その後、彼女がどのような経緯で未亡人になり、いつ野付牛のピアソン邸にやって来たのかは解りません。ピアソン夫妻が1928(昭和3)年にアメリカへ帰国する時、イカンノさんが生活に困らないように充分な処置をし、金太郎君は札幌の工業学校に進学させ、その後、彼は端野町で砂利運搬業を営んでいたと、佐藤猪之助氏が1960年に北見ロータリークラブが発行した小冊子「ピアソン氏の想い出」に書いていますが、この文がイカンノさん親子のピアソン氏の帰国後を書いたすべてで、イカンノさんがその後も野付牛町に住み続けたか、またはどこかへ引越したのかについては書かれておらず不思議に思っていました。
イカンノさんについて、今まで解っていた事は、姓が川村であり、名のイカンノは「刺繍が上手な女性」の意味という事。川村力子卜、砂澤クラのいとこである事などです。川村力子卜氏は上川アイヌの長で、鉄道測量技師として飯田線の難工事を完成させた事で有名な方です。退職後は旭川の川村力子トアイヌ記念館の館長を勤めていました。砂澤クラ氏はアイヌ文化伝承者で、子供の頃に旭川でピアソン夫妻が開いた日曜学校に通い、夫妻への養女の話も出たが父が断ったと自伝(クスクップオルシペ)に書いています。
ピアソン夫妻の許で働いていたイカンノさんは、当然クリスチヤンで、日本基督教会野付牛教会の教会員と思い込んでいましたが、彼女の記録を、現在の日本キリスト教会北見教会の会員移動記録で調べてみたところ、彼女が野付牛教会の会員たちと写った写真はありますが、教会籍に記録はありませんでした。普通、クリスチャンは転居して教会が変わった時など、どこの町のどの教会から移動したかが記録されるのですが、イカンノさんに関してはありません。
(中略)
先に挙げたイカンノさんの結婚式にはバチェラー夫妻とピアソン夫妻が写っており、また撮影場所が金成マツ氏の伝道所であると思われることから、イカンノさんは近文でバチェラーから洗礼を受けた聖公会の信者ではないかと思われ、長老派教会の野付牛教会に籍はなかったと考えます。
バチェラーは最初に自分がアイヌコタンに入って伝道を行い、その後にアイヌの伝道者を派遣するという方法をとっています。そのようにして出来上がった近文の聖公会の伝道所ですが、その当時の記録によると近文の伝道所は、あまり教派色は強くなく、救世軍が来るとそこは救世軍の日曜学校になり、またピアソン夫人が来ると彼女が日曜学校を開き、普段は金成マツ氏が子どもたちを教えていたようです。おそらく当時のアイヌ伝道者達は援助の少ない自給伝道だったので、旭川で宣教活動をしていたピアソン夫妻も近文伝道所を支えていたことでしょう。近文の結婚式の写真も聖公会のバチェラー夫妻、長老派教会のピアソン夫妻、さらに遠軽から来た太鼓と管楽器を持った軍服のような制服の救世軍も写っているのは、クリスチャンのイカンノさんを祝うために集まったと思われます。
写真/イカンノの結婚祝いの写真。ジョンバチェラー夫妻、ピアソン夫妻、知里幸恵、金成マツらが写っている。(この写真はピアソン氏が米国に送っていたもの)
このようにピアソン夫妻はアイヌの人たちと分け隔てなく交流し、メイドとして働く場を提供したり養女にしようとしたりと、慈しみの心で接していました。そして夫妻の尽力と教育の結果、知里幸恵と金成マツという歴史に残る人物を世に送り出しました。
またこの隠れた功績を掘り起し、記録として残されたピアソン会の業績を高く評価すべきと思います。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。
金成マツ
金成 マツ(かんなり まつ、1875年11月10日 - 1961年4月6日)は北海道幌別郡オカシペッ(現:登別市千歳町)出身のアイヌ女性。正しい和名は金成 广知(まち)。アイヌ名はイメカヌまたは、イメカノ。ユーカラの伝承者として高名である。
略歴
1875年、母モナシノウクと父ハエリレの間に生まれる。母モナシノウクは膨大なユーカラを暗唱していた。
1883年、父ハエリレが死去、1891年、怪我により半身不随となる。
1892年、妹の金成ナミと共にジョン・バチェラーによって設立された函館の愛隣学校に入学し、卒業後、妹と共に平取村の開拓・キリスト教の布教にあたった。
1909年、妹ナミの娘である知里幸恵を養女として迎える。
1922年、養女・幸恵が亡くなり、1928年金田一京助の説得により幸恵の遺志を継ぎユーカラの記録を始める。
1956年、紫綬褒章を受章し、1959年『アイヌ叙事詩ユーカラ集』が発行される。
1961年4月6日、85歳で死去。
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