ピアソン邸
ピアソン邸は、1914(大正3)年に建てられ、ピアソン夫妻はアメリカへ帰国する1928(昭和3)年5月まで住んでいた。その後、北見教会員神原信一氏が管理人を務め保存、1935(昭和10)年、ツルーメン宣教師が一時的に居住する。
1939(昭和14)年、北見教会長老唐笠学医師が住宅として使用するようになる。1952(昭和27)年から1963(昭和38)年まで、北海道立北見児童相談所として使用する。その後YMCAが一時期使用するが、1969(昭和44)年、北見市教育委員会が文化財として復元保存を決定し、1971(昭和46)年5月31日にピアソン記念館として開館する。
古いオルガンがそのまま残されており・・・・
クリスマスにはツリーが飾られる・・・・
二人の出逢い 来日当時の東京では、一般の外国人は築地の居留地での生活が義務づけられており、その築地にあった『一致教会で出逢った』とピアソンは記録している。
二人の結婚 1895(明治28)年6月、東京で結婚式を挙げたと記録されている。その頃は、ピアソンは北海道の小樽を拠点とした宣教師として伝道局より派遣されており、アイダは福島の教会へ派遣されていたとの記録がある。
北海道での活動 結婚後の二人は、小樽での活動を中心に、クララ・ロースの静修女学校やロース幼稚園の支援、道南の函館・伊達・室蘭・札幌などの地域の教会を支援する。1897(明治30)年頃より札幌へ活動拠点を移し、北星女学校(現北星学園)や札幌農学校(現北海道大学)で教えたり、全道の教会支援などの活動をする。1901(明治34)年、活動拠点を旭川へ移し、遊郭設置反対運動、監獄伝道、アイヌ民族への人権活動、婦人の人権活動等を精力的に実践する。
野付牛(現北見)へ活動拠点を! 旭川で共に活動していた坂本直寛牧師が1911(明治44)年に胃ガンで召天する。その坂本直寛が開拓団を率いて来た野付牛をピアソン夫妻は日本での最後の伝道地として選択する。それは、1914(大正3)年の事である。夫妻はこの北見の地で、1928(昭和3)年5月まで過ごし、40年間の日本での伝道活動を終える。
(ピアソン記念館ホームページより)
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そして現在、ピアソン記念館はNPO法人ピアソン会の皆様のたゆまぬ努力によって、人々の心を和ませる不思議な魅力を持つ建物として保存されております。
四季折々には、コンサートや映画会など多彩な行事も行われ、北見市民の憩いの場でもあります。
また事務局や会員の手による研究が続けられ、いまだに新しい歴史上の発見が行われていることに、あらためて敬意を表したいと思います。
「十勝の活性化を考える会」会員 K