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関寛斎の人物像については、多くの識者が分析している。
激動の時代を背景に、類いまれなる才能と豊富な人脈と資金力。
これらを背景に、極めて用意周到に、また抜け目なく、北海道開拓の準備を進めていった。
しかし、その根底は、華族や金持ちが目指していた「投資対象=不在地主」とは一線を隔していた。
自らその土地に乗り込んで鍬を振るい、民衆と労苦を共にする。
その姿勢が、百年後の現在も我々の心をつかんでリスペクトさせる、不思議な魅力のみなもとなのであろうか。
陸別町関寛斎翁顕彰会 渡辺勲氏の「関寛斎伝」より引用したい。
寛斎の子息八人のうち、七男・又一は彼が非常に愛し、期待をかけた息子だったと云われているが、同時に、寛斎の出自の農民の血を最も濃厚に継いでいるようである。
明治二十五年、又一は十七歳で札幌農学校に入学。当時、帝国大学(現・東京大学)をしのぐわが国切ってのエリート校とはいえ、又一の向学心による入学と云うより、父・寛斎のつよい意向が働いていたに違いない。それは、維新以来の徳島の蝦夷地移住や、三年前、前藩主・蜂須賀茂昭の雨竜原野の開墾など、寛斎のなかに色濃く浮かんでいた北方指向が、又一の進学を推し進めたのであろうことは想像にかたくない。
人学した又一は、教頭のクラーク博士や外国人教師からアメリカでの大規模な農作物栽培と農機具を駆使した大農場経営を学び、是非とも自分も手懸けたいと、将来への夢をふくらませていた。そのために必要な農地の手当を寛斎に図ったところ、彼はさっそく外務次官(後・外務大臣)林薫に払下げの依頼をした。林薫は、佐倉順天堂の師・佐藤泰然の孫で、寛斎がここでの修業時代に子守りをし、おむつを替えた間柄である。
又一が札幌農学校の学生と云う有利な条件と、顕官の口添えで、その年末には石狩郡樽川の原野九万坪が貸し付け許可され、小作六戸が移住した。
このように、寛斎父子は、陸別入植の前に、まず、石狩川の河口に当たる樽川に橋頭堡を築いたのである。
又一は、ここ樽川を足掛かりにして、さらに適当な開拓地を物色していた。
維新以降、蝦夷地の開発は、当然ながら海辺から進めていたので、この頃になると海岸縁はほとんど手が入っており、候補地と云えば条件の悪い奥地のみ。たまたま十勝地方の斗満地域が適当であるとの情報を得た又一は単身、足寄・陸別方面の原野に分け入り綿密に調査。それを卒業論文「十勝国牧場計画」にまとめて提出した。これによって寛斎・又一父子の北辺開拓の思いは昇華し、二人の夢は完全に重なり合ったのである。
・関寛斎伝・阿波を発ち北海道の開拓へ
北海道開拓の基金に充てるため、寛斎は家屋敷を処分したが、数多い家作は、手を付けなかった。
その借家の多くは、没落した士族が、困窮の果てに売りに出した家屋敷を寛斎が懇願されて買い取ったもので、気の毒に思った寛斎は彼等に引き続き住まわせていたからである。
そのため、世間では、彼等の家が寛斎の手に渡っているとは全く判らなかったのでる。
このように寛斎は、自己の得失より、彼等の立場が不利になったり、誇りが傷つかないように、さり気なく暖かい心配りをする人物なのである。
彼は、この時の心境を、詠に託して自己を納得させたのである。
身を思う心は身をば苦しめる
身をば思わぬ身こそ安けれ
渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編
「十勝の活性化を考える会」会員 K
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