十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 イコサックルさんの死の真相を追って (村田銃)

2020-06-05 05:00:00 | 投稿

・村田銃について

「明治13年(1880年)に村田経芳の手により、日本初の元込式ライフル銃である村田銃が発明される。この村田銃を猟銃に転用すべく、松屋兼次郎が村田経芳の指導の元、明治14年(1881年)に火縄銃の銃身を流用して開発し村田式散弾銃が日本初の元込式散弾銃となった。後に村田経芳が民間に広く村田銃のパテントを販売したことが契機となり、刀鍛冶や鉄砲鍛冶が村田式散弾銃の銃身や機関部を作り、指物師が銃台を作る状況が生まれ、日本の散弾銃産業の端緒となっていった。有坂成章の手により明治30年(1897年)に三十年式歩兵銃、次いで明治38年(1905年)に三八式歩兵銃が開発されると、それまで制式であった軍用村田銃や洋式ライフル銃はライフリングを削り取られ、散弾銃として民間に払い下げられるようになった。」【Wikipedia】
当時の猟師さんは、村田銃の改造型を使っておりました。様々な改造型が出回っておりましたが、大型動物を狙う場合標的との距離を長くとる必要があります。それはもちろん獲物に逃げられずに仕留める意味と、撃ち損じた時に反撃される恐れがあるからです。そのため、熊撃ちと呼ばれる人は、かなり銃身の長い改造銃を使っていたようです。
写真のヒグマより比較的小型なツキノワグマを仕留めた猟師さんの銃身も、写真上部にはみ出るほど長いようです。銃身が長いと、命中精度が上がりますがもう一つ見逃せないのが、散弾を使った場合のチョーク(絞り)効果です。距離を取って射撃したのに、弾が散ってしまっては確実に仕留めるのは困難です。これらいろいろな要件が重なって、熊撃ちの持つ銃は銃身が長かったのです。
「散弾銃は、銃身先端(出口)の内径を小さくすることで、弾のまとまりや飛距離をコントロールしている。この銃口内先端部分をチョーク(絞り)という。フル・チョークの散弾銃から発射された散弾は、1ヤード(91.4Cm)ごとに1インチ(2.54Cm)広がる。」【Wikipedia】

この事実から、釧路新聞の記事は「語るに落ちる」ことになってしまったのです。
すなわち、イコサックルさんが自身で銃身を構えて引き金を引いたかのように語られていますが、「散弾散って腹部面部を宛も蜂の巣の如く」散らばるためには面として30Cm以上広がる必要があり、チョーキング効果を考慮すると最低でも3m以上の距離から発射された散弾であると推察できます。さらに2連銃で連射された可能性もあります。

上野正彦先生にこの状況を解説していただくと、他殺という結論以外にありえないでしょう。 


一緒に居た妻の証言がもっともらしく語られていますが、犯人に脅迫され口止めされていたとすれば本当のことは言えません。身を護るために、自ら進んで証言したはずもなく、巡査の誘導に答えただけではなかったでしょうか。そして、その細切れの情報を本別駐在の釧路新聞の記者が、当時開通したばかりの電信を使って本社に送りました。電信とは、現在の電報をイメージしていただければよいと思います。モールス信号の日本語版ですから、文章を一度カナ文字へ落として記号に置き換える必要があり、速報性はありますが長文は送れません。受電した本社の記者が面白おかしく講談調に記事を作り上げていったと考えるのが妥当と思われます。ただ、12日の夜に死亡し、14日の新聞に掲載されたということは、当時としては新聞の速報性が出来上がっていたことになります。
旧土人保護法により、イコサックルさんたち陸別アイヌは約30Km離れた本別居留地に強制移住させられました。そこでわずかな土地を与えられたとしても、もともと猟師だったイコサックルさんが農業で生計を立てられるわけもなく、また他のアイヌの人たちがそうであったように、和人が持ち込み蔓延していた肺結核という死の病に侵されていました。

<<続く>>

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