今から38年前の1982年、中国ミニヤコンカ峰で遭難に遭い、奇跡の生還を果たした「松田宏也氏」をご存知だろうか。松田氏は、1955生まれの登山家である。松田宏也氏のことは脚注のとおりであるが、新型コロナ禍と経済を考えながら思い当たることがあった。
コロナ禍は、リーマンショックをはるかに凌ぐものでその影響は計り知れず、早い終息を願わずにはいられないが、コロナ禍はある意味で登山に似ている。
登山はつらいし危険と隣り合わせの時もあり、どんなに五里霧中であっても冷静な判断が大切で、登るべきか、戻るべきか二者択一を迫られる時がある。無理は禁物で、時として撤退する勇気も必要である。
ジッとして動かず天候の回復を待った方が良い場合も多く、11年前、日本百名山であるトムラウシ山の登山客が旅行日程に予備日がなく、天候の急変で不運にも低体温症で8人が死んだ夏山事故があった。
今回、コロナ禍の終息を待つか、経済を優先するかの、どちらを選択するかは難しい問題である。なぜなら命も大切であるが、多くの事業者が売上減少で困り、パンが無くて死んでいく子どもたちも沢山いるからである。
新型コロナの感染拡大は今も爆発的に広まっており、一刻も早い終息と新型コロナの実態把握や対処法、治療薬を願うばかりである。そして、多くの課題を活かして“災い転じて福となす”になってほしいものである。
「十勝の活性化を考える会」会長
注)松田宏也
同志社大学の山岳同好会に所属し、アラスカのヘイズ山登頂などで経験を積む。卒業後は日本ペイントに就職。1979年に千葉県の市川山岳会に入会する。
1982年5月、市川山岳会隊の一員として中華人民共和国四川省の大雪山脈ミニヤコンカへの登頂に挑戦。同隊員の菅原信をパートナーとし、2人で頂上を目指すものの、悪天候に阻まれて下山。しかし頼みの綱であったサポート隊がキャンプを撤収して下山した後であったため、菅原と2人での下山を強いられる。
途中、菅原は衰弱により下山することができず、単独での下山となった松田は山中を19日間さまよった末、満身創痍のところを地元民に発見され、奇蹟的に生還を遂げた。
松田たちの遭難には、下山途中に菅原がトランシーバーでサポート隊に状況を伝えた際、生存を諦めるような悲壮的な会話をしており、まだ体力のある松田が通信を交代しようとしたものの、トランシーバーが凍結で故障、サポート隊が松田たちを遭難死と早計したという事情があった。
一方で山中での松田は、限界に達した菅原と2人では確実に共倒れすると判断し、菅原と別れて単独で下山しており、山中で何度も菅原に詫びたという。このことで、パートナーを見殺しにしたという厳しい声を浴びたこともある。
生還を遂げた松田は手足が凍傷に侵されていたため、手術により両手の指のほとんどと、両脚の膝下を切断される。2年近いリハビリテーションの末、義肢により自動車の運転が可能なほどに回復し、元の職場にも復職。
その後も切断障害を抱えた身でありながら、1986年に厳冬の富士山に単独登頂、1988年に厳冬の北海道斜里岳に登頂、1995年にはヒマラヤ山脈のシシャパンマへ遠征して7900メートル地点まで到達するなど、現役の登山家として活躍を続けている。
著書に、ミニヤコンカでの山中の件を綴った『ミニヤコンカ奇跡の生還』、その後の復帰の過程を綴った『足よ手よ、僕はまた登る』があり、講演でも活躍している。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
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