沙絵の太陽
令和元年11月28日付け「北海道新聞」夕刊の今日の話題欄に、以下の記事が載っていた。
『函館でタウン誌を長く発行しながら小説や随筆を発表しながら、2005年に76歳で亡くなった木下順一さんは、結核性関節炎のため7歳で右脚の切断手術を受けた。生前、こう語っていた。
「障害者が偉業を成し遂げると“障害を乗り越えて”と言いますね。そうではなく、障害があるからこそ、健常者に見えないことが見えたり、できないことができたりするのです。」
渡島管内七飯町で生まれ、函館で育ったリオネジャネイロ・パラリンピック陸上女子400メートル銀メダリスト重本沙絵さん(25)の講演を今月、地元の函館で聞き、木下さんの言葉を思い出した。
生まれつき右肘から先がない重本さんは元ハンドボール選手。小学校の時。シュートを決めると指導教員は「沙絵、太陽が見えたね」と喜んでくれた。中学校の時、「特別扱いしない」と厳しい言葉を掛けられたのが「うれしかった。頑張れば認めてくれる」。
健常者と同じコートで戦ってきたから、日本体育大で障害者陸上への転向を打診された時は悩んだ。障害者スポーツの「かっこよさ」を知り、努力を重ねて得たリオのメダルだった。
今月の世界選手権は7位に終わり、今大会の東京パラインピック代表内定は逃した。「負けて重圧から解放された。また頑張れるな、私。」。世界ランク6位以上での代表内定に向け、練習に励む。
「つらいこともあったけど、いろんな人に出会い、支えられた」。才能あるアスリートが再び太陽のような笑顔に輝くことを、地元は信じて待っている。』
私も障害者なので、この記事を読んで次のように思った。「人間は同じ境遇に置かれないと、その人の本当の気持ちは分からない」と。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) パラリンピック
パラリンピックは、国際パラリンピック委員会が主催する、身体障害者(肢体不自由(上肢・下肢および欠損、麻痺)、脳性麻痺、視覚障害、知的障害)を対象とした世界最高峰の障害者スポーツの総合競技大会。オリンピックと同じ年に同じ場所で開催される。アテネ大会から夏季オリンピックと共同の開催組織委員会が運営する。
パラリンピックはIPCの登録商標であり、各国に委員会を設け、商標の保全を義務付けている。日本においては、元厚生労働省所管であった公益財団法人日本障害者スポーツ協会(以下JPSA)の下に日本パラリンピック委員会(以下JPC)が設立され、商標保護に努めるとともに、日本選手団の派遣事業を行っている。
日本国内において「パラリンピック」という文言を使用するためには、日本障がい者スポーツ協会の承認を必要とし、オフィシャルサポーターと呼ばれるスポンサー契約を結ぶ必要がある。なお、文字数の関係で『パラ』と省略したり、『パラ五輪』と記載するメディアも存在する。
オリンピックの直後に同じ場所で開催するというIPCの戦略が奏功し、格段にマスコミに取り上げられる率が高く、数ある「障害者スポーツ大会」の中で、現在、最も知名度が高くなり商業的にも成功をおさめつつある。
また、開始当初は車椅子使用者のために実施されてきた大会が、その他の障害者にも拡大されていった大会で、同じ障害者スポーツの競技大会ではあるが、デフリンピック(聴覚障害者)や、スペシャルオリンピックス(知的障害者)とは、別の理念と歴史が存在している。
日本では、ながらく厚生労働省所管となっていたが文部科学省に移管され、オリンピックとの一元化が図られることとなった(「福祉」から「スポーツ」へ節参照)。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
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