徳島での、関寛斎一家の集合写真です。
明治32年、正月4日
寛斎さん、70歳となり、家族一同が介して、古希の宴を行った時のことです。
寛斎さんの生涯で、一番落ち着いて 安定した、幸せな時期であった様子がうかがえます。
しかし少し気になるところがあります。
みなさま、晴れ着を着て記念写真を撮ろうとしたのでしょうが、普通、家族の記念写真では、中央に当主である寛斎夫妻が鎮座されるでありましょう。
しかし、中央には又一さんが幼児を抱えて座っており、主役の寛斎夫妻は後ろに立っております。
後方、右端には、生三さんが写っております。
寛斎さんの表情が少し冴えないような気もいたします。
こんなやり取りがあったのかもしれません。
なにか、些細なことで寛斎さんのへそが曲がっているようです。
又一、 はやくみんな集まって、記念写真撮りますよ
父上、母上も早く真ん中にお座りください
寛斎、 わしゃあ写真なんぞ写らなくてよいぞ
又一、 そんなことおっしゃらずに、前へおいでください
生三さんも出てきてくださいよ
寛斎、 ええから ええから はよ 撮れ
と、言いつつ、自分の大事な 鼓をしっかりかかえております。
この鼓こそ、亡き蜂須賀斉昭から賜った、寛斎自慢のお宝だったのです。
一生肌身離さず、北海道トマムの山の中で、ポンポンと叩いておりました。
その遺品が、陸別町関寛斎資料館に、現在も保存されております。
実は寛斎さんの冴えない顔の訳は、ほかにありました。
寛斎さん自身が考えに考えた末、北海道行きの決意を固めていたのですが、なかなか妻のあいさんには、言い出せないでいたようです。
この日の夜、あいさんに自分と別れて、息子ところへ身を寄せてほしいと切り出しました。
しかし、わけを聞いたあいさんは、夫の決意を受け止め、「自分も一緒に、北海道へ着いてまいります。」と答え、二人で移住の準備が始まったと言われております。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます