十勝の活性化を考える会

     
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知里幸恵著“アイヌ神謡集”の本

2020-03-10 05:00:00 | 投稿

先日、知里幸恵著アイヌ神謡集の序文に、以下のことが書かれていた。

 

 『その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて

のんびりと楽しく生活していた彼らは、真に時代の寵児、何という幸福な人たちであったでしょう。

(中略)

 

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく発展していく。

 

激しい競争場裡に敗残の醜さをさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強い者が出てきたら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがて来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明け暮れ祈っていることで御座います。

 

けれど、愛する私たちの先祖が起き伏す日頃、互いに意を通ずるために用いた多くの言葉、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消え失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい、名残惜しいことで御座います。

 

アイヌに生まれ、アイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇あるごとにむち打って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中、極く小さな話の一つ二つを拙い筆に書き連ねました。

 

私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事ができますならば、私は、私の同族祖先と共に本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます。』

 

大正十一年三月一日

知里幸恵

 

これは知里幸恵のアイヌ神謡集 の一節であるが、この中で、「おお亡びゆくもの、それは私たちの名、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」と書かれている。

 

日本人の一人として心苦しい限りで、何という辛く悲しい歴史がアイヌ民族に潜んでおり、察するに余りあるものがある。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注) 知里幸恵

【知里幸恵。この写真は、彼女が死去する2ヶ月前、大正117月に滞在先の東京の金田一京助の自宅庭で撮影された。】

 

知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年明治36年)6月8日 - 1922年大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ女性。

19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。

 

また、『アイヌ神謡集』は、フランス語英語ロシア語にも翻訳されており、2006年1月には、フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版の出版報告に幸恵の墓を訪れている。

 

なお、弟に言語学者でアイヌ初の北海道大学教授となった知里真志保がおり、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などからはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評された。

他の弟の知里高央(ちり たかなか、真志保の長兄)も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。

 

1903年(明治36年)68日、北海道幌別郡(現・登別市札幌市から南へ約100キロ)に生まれた(父・高吉、母・ナミ)。6歳で旭川市の伯母金成マツのもとに引き取られて尋常小学校に通学した。

最初は和人の子どもと同じ学校だがアイヌのみの学校設置がされて学業優秀等でアイヌの尋常小学校を卒業した。

 

旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。

 

幸恵の祖母・モナシノウクはユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩カムイユカラの謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。

 

幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始め30年以上たっていた。この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。

金田一京助の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。

 

幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。

 

幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)918日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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2 コメント

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Unknown (glimi)
2020-03-13 23:55:52
知里幸恵さんの神謡集は1989年北海道エスペラント連盟がエスペラントに翻訳し出版しました。仲間に入れておいてください。
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アイヌ神謡集 (ヒグマ)
2020-03-16 13:51:02
glimiさん、コメント有難うございます。実は、息子の義父が「貝澤徹」氏で、アイヌ民芸の彫刻士としては、日本でナンバーワンだと思っています。ブログもありますので、暇な時にでも見てください。そのようなわけで、アイヌ関係の本を読んでおり、1冊が「アイヌ神謡集」でした。なお、エスペラント語は難しいそうですが機会を見て挑戦してみます。
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