十勝の活性化を考える会

     
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音幌農場

2019-04-05 06:00:00 | 投稿

音幌農場

安政5年(1858年)、松浦武四郎が音更川と十勝川とが合流するコタンの地に足を踏み入れたのが、音更の最初の和人とされている。その後、明治13年(1880年)に大川宇八郎が「サッテキ・オトプケ」に入地し定住したのが、音更町のはじまりといわれている。

音幌農場は、鹿児島県出身の海軍大将の仁礼景範が、明治30年9月に国から無償で貸付を受けて翌年から事業を行ったところで、はじめは「仁礼農場」といった。

その後、仁礼景範の長女の婿である斉藤実(まこと)に代わってからは、その名称を音更の「音」と下士幌の「幌」を取って、「音幌農場」に変わっている。斉藤実は岩手県水沢藩の出身で、首相を辞めたあとに音幌農場管理事務所兼屋敷に住むことにしていた。

しかし、原敬首相から再三にわたって朝鮮総督を要請されたことからこの屋敷には一度も住むことがなく、昭和11年に起こった二・二六事件で殺された時には、首相ではなく右大臣をしていた。

音幌農場は、南北で音更1号から9号まであり(高速道路のあるところから帯広リバーサイドホテルまでの約5キロ)、東西では音更基線1号から東4号までの範囲であった。

なお明治30年、国は「北海道国有未開地処分法」を制定して、資本家や大地主に対して百ヘクタール以上の土地を無償で貸付している。そして音幌農場は十勝管内で典型的な不在地主農場で、小作制の大農場であった。

音幌農場は農場主として農場管理人を置き、その管理人が年貢の取立や貸付、日常的な世話役などを行なっている。そして、小林多喜二の「不在地主」や有島武夫の「有島農場」(ニセコ町)は、これら不在地主農場のことを書いた本である。

十勝の開拓には、想像を絶する苦労があった。私たちはそのことをもっと知るべきであり、忘れてはならないと思う。人々が大志を抱いて北の大地を目指した時、様々な理由があった。そして予想していた以上に困難も多く、夢やぶれて離農された人も多くいた。

しかし私たちは、悠久の歴史の中のほんの一時期しか生きていない。そしてどのような世の中になっても、農産物が無くては生きていけないと思う。

十勝の農家は、戦後の農地解放によって自作農家が増えて、農業機械の導入によって農作業は少し楽になったが、農家戸数の減少は今も続いている。そして北海道の農業従事者は、この15年間で約3割も減少している。十勝は農業が基幹産業であるが、関連業種も発展してこそ十勝全体が発展することを忘れてはいけない。

「十勝の活性化を考える会」会員

※参考文献:「旧仁礼農場と音更市街の形成」 (音更郷土史研究会)

 

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