日本人の起源
【縄文人と弥生人】
太古の昔、日本列島は中国大陸や朝鮮半島と陸続きで、「日本」「中国」「韓国」などとの国境はなく、古代の人々は日本列島や朝鮮半島、中国大陸などの広い範囲に住んでいた。
大陸とつながっていた時代は、様々な人種が日本に往来していたが、氷河期を終わり間氷期の時期になると、海水面が上昇して今のような島国となった。
そして、日本列島に初めて移り住んだヒトが、「縄文人」と言われている。その後、弥生期に入ってからも中国や朝鮮などから来た渡来人との交流が続き、日本は独自の文化を開花していくが、この人種を「弥生人」と言われている。
【アイヌ民族】
アイヌ民族は北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部に住んでいる先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指しているようだ。アイヌ民族がいつから北海道に住み始めたことについては諸説があり定かではない。
しかし、現在の認識において“伝統的なアイヌ文化”とされている生活文化・精神文化・社会のあり方へと姿を変えていった時期が14世紀前後ということが、現在の「有力な学説」だと思われます。
【蝦夷征討(えみしせいとう)】
奈良時代の西暦801年、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征討(えみしせいとう)を行なった史実もあるが、この頃の北海道はあまり知られていなく、「えみし」は現在の東北地方である陸奥国や出羽国など日本の広い範囲にいた人を指していた。従って江戸時代までは、和人(シャモ)と共に東北地方にもアイヌ民族(エミシ)が住んでおり、東北地方にはアイヌ語の地名が多数ある。
しかし、明治時代になってからのアイヌ民族は、北海道に追いやられて、生活の糧である狩猟やサケ漁も制限された。そして日本語も強要され、やせた土地に強制移住させられるなど多くの差別を受けた。そのためにアイヌは和人と比べて生活水準が低く、アイヌ民族は滅びゆく民族とも言われ、その精神文化だけが受け継がれようとしている。
北海道開拓の五十年記念に出版された『北海道史』は、「北海道の開拓は、知識低きアイヌによりて、之を成すことを能わず、必ず之を他の優等人種にまたざるべからず。而して北海道の附近にあって、アイヌと接触する優等人種は、和人の他になきを以て、その開拓の任が和人にあるは、多言を要せざる所なり。」と、編纂委員であった河野常吉氏のこのような言葉で始まる。
さて昨年の北海道は、松浦武四郎により命名された150年目を迎えた年で、様々なイベントがあった。
しかしアイヌ民族にとっては、和人による搾取と収奪、植民地化された150年目とも言えるもので、アイヌの人達から見れば、明治新政府がとった同化政策(「北海道旧土人保護法」)の功罪など、議論の焦点が少しずらされてしまった。
アイヌ民族が文字を持たなかったこともあるが、歴史は常に“勝利者”の側から、つまり日本では和人側からみた「史実」や「正史」が記録されてきた。こうした記録以外にも江戸時代以降に多くの和人が蝦夷地を訪れ、そのほとんどが共通の視点を持って書かれていた。その共通の視点とは、意識しているいないに拘わらず「文明」化された和人が、「未開」のアイヌを劣っている民族として見下すというものであった。そのためアイヌには、差別を受けた者としての辛い過去が強く感じられる。
明治時代に入ってからも、和人によるアイヌに対する詐欺的な交易は続けられる一方、アイヌへの差別は同化政策でも行われた。そしてアイヌは、北海道の開拓が進むとともに住んでいる場所から追い立てられた。そして自然の中で生きてきた彼らには、これといった才覚はなく低廉な賃金で和人に使われて細々と生きていくことしか出来ず、その生活は貧しさのドン底であった。和人に言わせれば、「アイヌは、無気力で意志薄弱な劣悪人種である」ということになり、アイヌ民族への偏見がますます広がっていった。
文明が栄えたところには、必ず文字があった。その理由は、文字があれば文化が伝わり易かったからだと思う。アイヌ民族が文字を持たなかったのはなぜだろうか。何の不自由もなく生活しており、必要なかったのではないだろうか。
「十勝の活性化を考える会」会員
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