“悪事千里を走る”という言葉がある。すなわち、“悪評被害”である。悪事は瞬時に知れ渡るということが、新型コロナの感染拡大の中でたびたび起こる。「あの病院で、コロナ患者が出た」とか、「あの介護施設で、コロナの陽性者が出た」という風評である。良い風評より、悪い風評の方が伝わりやすいのである。
これはテレビにも言えることで、面白おかしく放映した方が視聴率が上がるので、事実を捻じ曲げて報道するのである。ときにはヤラセなどもあり、そのメディアの責任者が視聴者などに対して謝罪するときもある。だから、マスメディアの役割は重要で、社会を変える力がある。
先日、ジャーナリスト 立花隆氏の死去が伝えられていた(享年80歳)。その比類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせていたことから、「知の巨人」の異名を持つ。1974年、月刊『文藝春秋』に「田中角栄研究~その金脈と人脈」を発表し、田中角栄首相の失脚のきっかけを作り、ジャーナリストとしての不動の地位を築いたそうである。
彼はまさに孤軍奮闘で、晩年、「追及をやめなくてよかった。諦めないで良かった」と言っていたが、“赤木ファイル”や森友学園、桜を見る会、数多くの政治献金などの追及はマスメディアの責務であろう。近畿財務局 赤木俊夫職員の自殺を無駄にしてはならないと思う。
先日のNHKスペシャルで、新型コロナ禍の日本の医療崩壊に絡んで、「日本の国を良くするのも悪くするのも、見てみぬ振りする日本人の性格が良く表している」と放映していた。次の良い時代を作るのは、地球温暖化を招いている大人の責任だと思っている。
「十勝の活性化を考える会」会員T
注)立花隆
立花 隆は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家である。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など多岐にわたり、多くの著書がベストセラーとなる。
2007年暮れ、膀胱がんの手術を受けるが、その後も世界の最前線の研究者たちを取材し、がんの正体を根源的に見つめ直す活動を続けた。
1940年、長崎県長崎市に生まれる。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中国・北京(当時は中華民国)へ渡る。
1946年、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している。
また、中学時代は陸上競技にも熱中。俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩であり、3人とも陸上競技選手だった。
1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。
1964年(昭和39年)、東京大学文学部フランス文学科卒業後、文藝春秋に入社。岩波書店とNHKの試験も受けたが不合格だったという。入社後は希望通り『週刊文春』に配属される。上司に堤尭がいた。先輩記者の導きで、文学青年時代から一転ノンフィクションを濫読して多大な影響を受けるが、もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから3年足らずで文藝春秋を退社。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
オリンピックでの選手の活躍の感動で
“赤木ファイル”や森友学園、桜を見る会、数多くの政治献金などの問題を隠そうとしているように思えて仕方ないです