今日は雨の中、震災10年目の朝を迎えました。 当日はもっともっと気温が低かったように思います。
私は2~3日前から風邪を引き熱もありました。 家族にうつしてはいけないと二階で一人で寝てました。
主人は子供と同じ部屋で寝てましたが、大阪まで通勤するので5時半には既に起床してました。
前の晩「明日は自分でコーヒーでも飲んで行くから起きなくて良いよ」そう言ってました。
地震の起こる少し前、主人の起き出した気配を感じていました。それから間も無くです。
ガタガタっと来て一瞬止まりました・・・・とても不気味な感じを覚えています。
私は反射的に飛び起きました。その途端に、ゴ~~と言う地鳴りを伴った震度7の烈震が襲いました。 振り返ると、私が寝ていた枕の上にラウンドハンガーが倒れ、その上に照明器具が落ちて割れていました。
一瞬遅かったら、顔と頭に大怪我をしていたでしょう・・・・長い揺れが続きました・・・
隣の部屋に居る息子の所へ行く事も出来ません。 最初の揺れが収まった時、主人も二階に上がって来てくれ、私達は息子の部屋に行けました。
しかし、なんと我が息子はスヤスヤと眠っていたのです!!あの烈震にも気づかずスヤスヤと・・・とにかく寝ぼけてる息子をベッドから下ろし(スチール製の丈夫で背の高い物)親子3人、そのベッドの下に避難しました。
何度も強い余震が襲いました。 築古年だった家を建て直してから13年でした。 家は押し潰される事もなく、私たちを守ってくれました。
「家から出るな!」そういい置いて主人は何と車で出勤して行きました。『あの地震の日にも出勤した男』と今でも言われてます・・・・
私達は強運だったと思います。家が守ってくれたから死ぬ事も無く、体育館に避難する事も無く自宅で過ごせた事がどれ程の幸せだったか・・・・・
自衛隊の方が運んでくれる水を頂き、トイレ用には川まで水を汲みに行きました。
林檎1個1000円と言ったお店、殆んど定価で売ってくれたお店・・・繋がっていたのは電気だけでした。
毎日、育ち盛りの息子に何を食べさせようかと思いました。主人から「俺たちは軽かったんだ、物資とかを貰う列には並ぶな」と言われていました。
マンションに居た妹夫婦は怖いからと言い、一時期体育館に避難していました。
そこで配られたパンを巡って、見たくない争いを目にし、それが辛かったと言います。
しかしそのパンやお握りさえ、最初の2日は殆んど配られなかったそうです。だからこそ、配られた時、余分に取り込む人がいて、貰えない人との間に争いが起ったのでしょう・・・・
今でも被害の大きかった地区には空き地が広がっています。10年経っても空き地のままだと言うのは寂しいものです。
そして今でも、グラッとくるとハッと身構えます。次に来るかもしれない烈震に向って全身が緊張するのです。これはあの地震を体験した者なら誰もが共有する事のようです。
大切な人を一瞬にして失った方、肉親を迫り来る炎に助けられなかった多くの人達・・・・長い時間、瓦礫に閉じ込められた方々・・・同じ神戸に住みながら最小限の被害しか受けなかった私などは「震災」を語れないと思っています。
合掌