「名曲のたのしみ、吉田秀和。」という飾り気のない、むしろぶっきらぼうなラジオ番組のオープニングで知られる、あの人が逝ってしまった。98歳だった。
ホロヴィッツ、小澤征爾、中原中也…吉田秀和にまつわる数々の伝説を語ることは訃報記事に任せよう。
あえて、この知の巨人に私が触れるのは、今朝の新聞の吉田秀和追悼記事の最後の言葉に目が留まったから。
その部分を紹介します。
>>関東大震災や東京大空襲をくぐるぬけてきた吉田さんが「最大の絶望」と語ったのは、
東日本大震災、とりわけ原発事故だった。
「あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。
かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない」
この最後の寄稿は昨年の6月でした。<<
村上春樹のカタルーニャでのスピーチと共に、これがあの世界を震撼とさせた大惨事に対するまともな大人の反応だと思う。
それなのに何もなかったかのように目を背けて、平穏に暮らし続けるふりをできることが私には信じられなかった。
今更、3・11(原発事故は翌、3・12でした)をチャラにすることなんて、できないのですよ。
その曇った眼差しを、いつ目覚めさせるのでしょうか?
最晩年まで透徹した眼差しで世界を見つめ続けた知の巨人を偲び、その人の愛したシューベルトの菩提樹を張っておきます。
福島第一原発事故による人体への影響が出てくるのは、まだ5年から10年先、チェルノブイを思えば半世紀以上先まで、その影響を見守って行かなければなりません。
それなのに僅か一年足らずで、もう忘れようとしている。
この現状が恐ろしいのです。
広島でずっと被曝患者を見守ってきた医師、肥田舜太郎氏の「内部被曝の驚異」(ちくま新書)を読みました。
そしてアーニー・ガンダーセン氏の「福島第一原発ー真相と展望」(集英社新書)も。
広島、長崎の放射能の人体への影響を調査した膨大なデータはアメリカによって厳しき隠蔽されました。
放射能に関わる情報を口にすることを憚る社会的風潮は、この頃から出来上がっていたと思われます。
それはアメリカ本国でもロシアでも同じです。
ヨーロッパは、まだ比較的オープンな雰囲気があります。
それはドイツや北欧諸国の原子力政策をみても明らかです。
私は、ブックマークにリンクした四丁目でCAN蛙さんのように、日々の暮らしのなかで、
ごく当たり前に放射能や原発への発言ができるような雰囲気を作りたいのです。
全国放射線情報を見れば判るように、これから私たちは放射能と共存してゆくしかないのです。
それはこの先、とても長い闘いになります。
どうか目を逸らせないで現実を見てほしい。
そして、そのことを日々の暮らしの中でオープンに話せる環境を作って行かなければなりません。
そう、それは未来の子供たちのために私たちが最低限しなければならない責任です。
私も事故からしばらくは音楽を聴く気にはなれなかった。 けれども、困ったときには音楽に向き合いたくなる。激動の時代に生きたベートーヴェン、ショスタコーヴィチなどの厳しい音楽やバッハのマタイなどの受難曲をよく聴くようになった。 吉田さんはベートーヴェンについてこう教えてくれた。『音楽は、多くの場合、ずいぶんと騒々しいものになるが、それが終わった時、人々は興奮の後にくる充実感から生まれた勇気を抱いて、音楽会場を離れ、人生の中に帰ってゆく。そうして、人間は生きていくために、何度でも勇気を必要とする場面に遭遇する。だから、ベートーヴェンはこんなにも多くの人々に好んで聴かれるのだろう』(白水社 吉田秀和全集第一巻 P.282)。ここでは、ベートーヴェンの音楽の騒々しい面が述べられているけれども、一方、ベートーヴェンの後期の作品群については、吉田さんは、ロマン・ロランらと同様、宗教的な、絶対的なものへの帰依の姿勢を認めている。だから、『ベートーヴェンの音楽は常に悩むものの友だちであり、ときに、慰めてである』(同 P.509)と。
吉田さん亡き後、残された私たちが悩みながらフクシマ後に立ち向かわなければならない運命にある。
今週は、ずっと福島や東北の被災地を歩いていました。
自分自身の眼で、未曽有の災害の地を見ておきたかった。
地縁もないので手探りの旅でしたが、やっぱり現地に行かないと視えてこないものが多々ありました。
chakurobeeさんのブログ、拝見しました。
とても参考になる記事が多くて、読み入ってしまいました。
10万人集会にも参加されたのですね。
ブックマークしている大阪の四丁目でcan蛙さんもそうですが、日常的な視点で原発に向き合うブログが、どんどん増えてきていますね。
コメントありがとうございました。