Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

騎士団長殺し / 村上春樹

2017-03-02 | 

 

長い旅路を終えて、背負っていた重い荷物を下ろしたような感慨がある。

読み始めから読了まで一週間を要した。

一冊目は、その甘美な時間を慈しむように何度も本を閉じて、午後の陽射しの中、散歩に出かけ、語られる言葉を反芻していた。

画家が対象を見つめ、創作する過程は、表現することの意味を真摯に問いかけてきた。

ちょうど肖像画家の代名詞的な存在であるティツィアーノを日曜美術館で観たのもタイムリーだった。

そして二冊目は、ある時点から一気呵成に時間は加速した。

一冊目に五日を要し、二冊目は二日で読み終えた。

とても濃密で深い示唆に富んだ一週間だった。

これが同時代の物語として、村上春樹を読む快楽(悦び)だろう。

 

久しぶりに一人称で語られる物語だ。

物語作家として俯瞰する世界が汽水域を越えた辺りで、村上春樹は一人語りの一人称を棄てた。

一人称で語れる世界には自ずと限界がある。

汽水域を越えて河口から広がる茫漠とした海原の眺望は、固定された単眼の視点では捉え切れない。

ふわり虚空へ上昇し、広い世界を見渡せる複眼の視点が必要だから。

でも今回は、あえて制約を設けて一人称へ回帰した。

それは観るという行為を語源とするイデアの物語だから。

そして語り手である名前のない顔なしの肖像画家は、一度見たら忘れない特異な記憶力を有するサヴァン症候群の持ち主。

観察者であること、無個性(無我)であること、そして有能な肖像画家であること。

それらは一続きに、この物語の基調をなす.

もうひとつ、タイトルである「騎士団長殺し」はモーツアルトのオペラ、「ドン・ジョヴァンニ」からきている。

ドン・ジョヴァンニとは稀代の好色家、ドン・ファンのことである。

騎士団長を刺し殺すのは主人公であるドン・ジョヴァンニ。

そして石像化されてメタファーとなった騎士団長に歌劇終幕で地獄めぐりの旅へ突き落とされる。

作中に登場するリヒャルト・シュトラウスのオペラ、「薔薇の騎士」も含めて、おおらなか性行為はメタファーなのだろうか?

父親不在で生まれてくる子供たち(まりえと室(「むろ))は、メタファー(暗喩)としてのエキセントリックな性行為の結果として誕生する。

まぁ、父権的な暴力性や理不尽さに対する嫌悪感は、村上春樹の物語には一貫しているが(笑)

蛇足として村上春樹が最も愛する物語、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」へのオマージュが用意されている。

 

さて物語は、山の頂にある隠れ家のような画家のアトリエ(ここでは英語表記でスタジオ)が主な舞台となる。

小田原の海に面した山間地のその場所は、大気の流れの境界線となるところ。

雨や霧の気象の流れは、その頂きを境として異相を成す。

海側は晴れていても、山側は雨や霧が、シトシト音もなく降っていたりする。

そして境界となる場所には、色んなものが集まってくる。

ここには近代以前の私たちが原初の記憶として忘却の淵(縁)に置き忘れてきた深い闇がある。

村上春樹が「羊をめぐる冒険」以来、一貫して描き続ける黄泉の世界(神話世界)巡礼。

それは世界中、どの民族にも共通の物語の原型としての太古の記憶なのだろう。

だから東アジアから欧米まで世界中で村上春樹の物語は共感を得られる。

気取ったお洒落な都会人のスノッブな話だと未だに誤読している人が多いのは残念だ。

確かに、そういう記号的な小道具による、読者を気持ちよく物語の流れに乗せるための媚薬的な作用は否めないが(笑)

美味しい料理や官能的な音楽に身を委ね五感を解放する心地よさは魔術的である。

(それは小澤征爾との対談集に結実している)

今回の近代以前の闇は、禅定(入定)としての生きたまま地底に閉ざされる即身仏の途方もない闇。

空気穴だけを残し真言を唱えながら鈴を振り続ける空間や時間の観念を超える忘我の闇。

修験道における禅定とは、霊山の頂きを意味するらしい。

物語のクライマックス、黄泉の世界巡礼は、イデアの忘却の河を渉り、修験道の胎内巡りの闇を体験する。

導かれる闇に散りばめられたフラッシュバックする断片が、読み手である私自身の埋もれていた記憶を呼び覚まし、

とんでもない光景を次々と垣間見るインナートリップを体験させられることに。

上も下も右も左も分からない漆黒の闇。

私自身が深山の野営で体験した太古の記憶、近代以前の闇を皮膚感覚として甦らせる。

闇の記憶とは原初的な畏怖の皮膚感覚だ。

近代化以降の人間の傲慢さと象徴としての煌々と光り輝く文明の表裏、

薄皮一枚隔てた裏側にある途方もない深い闇。

それは2011年3月11日、東日本を覆った闇である。

あれ以来、私たちは不可解な時計の針を逆回りさせる退行現象の渦中にある。

心身ともに痛みを伴う長い旅を終えた気分だ。

目の前に暗い淵(縁)を覗かせる闇から目を逸らせるな、とイデアとしての騎士団長が私たちを導く。

ポスト・トゥルース(真実)の時代だからこそ。

 

 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹

新潮社

  騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹
新潮社

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2 コメント

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読書家 (鬼城)
2017-03-04 19:13:04
ランスケさん、本当に本をよく読みますね。
そしてその本より得ること、本の内容を分析し批評すること。
最近、自分は本を読むスピードが遅くなり、一冊読破するにも半月ほど掛かります。
「騎士団長殺し」も食指は動きますが、頼まれ仕事が急に入り、歴史書を読み返さねばならず・・・
村上春樹の小説を書こうとする意欲はどこから来ているのでしょうか?
アイディアが次から次へと湧いてくることが凄い。
返信する
読書は習慣 (ランスケ)
2017-03-04 21:24:37
私の場合、読書家というより習慣です。
歯を磨いたりストレッチをしたり散歩することと同様に日常的な生活習慣としか云いようがありません。

一時期、これ以上、本が増えないように、なるべく買わないように抑制して来たつもりでしたが、
やっぱりダメでした。
ここのところ、またまとめ買い(爆買い)の反動が凄くて(汗)

特に最近は、何が真実か?という知的好奇心の基本的な部分が崩壊しようとしていますから。
それはSNSの「自分の信じたいことにしか興味を示さない」という近視眼的なところにも顕著ですね。
便利ですけどネット情報に依存しているのは危険です。
何か知りたければ、本屋や図書館へ行って、色んな知見に当たってみるに限ります。
幸い、私の街には人文系の充実したジュンク堂があるので助かっています。
宇和島は確かにその点、厳しいですね。

アマゾン・ブックレヴューを見ると、
「騎士団長殺し」に対する罵声が並んでいます(笑)
南京虐殺の描写がありますからね。
近現代史の負の部分を病的なまで否定する集団ヒステリーには呆れるばかりです。
都合の悪いことは、無かったことにする。
という病識は、戦前から現政権まで証拠記録の隠滅という症状に脈々と継承されています。
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