心が鎮まる風景と題して、これ?不可解に思われるでしょう。
私も、このタイトルならと、清涼な水の風景や心洗われる森の風景をイメージしました。
ストック画像から、あれこれ選別を図りましたが、どうもピンとこない。
癒しというキーワードで流通しているヒーリング画像って、本当に心が鎮まるのだろうか?
雨の日曜日、何気なしに観ていたテレビ番組…NHKアーカイブスの「千日回峰」の記録だった。
最も過酷な堂入り明けの、温かい薬湯を阿闍梨が口に含むシーンがあった。
「あっ、これだ」と思った。
人間の限界を越えた不眠不休一切の水も食も断った9日間の真言を唱え続ける行。
その堂入り前まで比叡山山中40kmを夜を徹して毎日歩き続ける700日の行がある。
人間がその限界を越えたところで起こる不可思議な生理現象…それが最も穏やかな魂が鎮まる瞬間ではないだろうか?
壮絶な嵐の過ぎ去った後に訪れる凪の海を想像してもらえば分かるだろう…
アスリートが限界を突き抜けたゾーンもそれかもしれない?
微温湯に浸かったままのゆるく弛緩した幸福感が、魂が鎮まるような瞬間とは思えない。
吹き荒んだ雪嵐が去って、成層圏まで突き抜けるような紺碧の空。
そして凍えた体温を緩ませる真冬の太陽の温もり。
これが私の選択した心が鎮まる風景です(笑)
それと肉体と精神の限界を越えた荒行を阿闍梨が成し遂げられたのは、私利私欲からの達成感ではないと。
衆生の功徳を想う利他の心がないと千日に及ぶ荒行は不可能だと言っていた。
そう云えば年始に観たドキュメンタリーの中でも、今の時代に最も必要なものは、
「他者をおもう想像力である」、そう締め括っていた。
コメント、ありがとうございます。
私自身、横倉山の写真愛好家の皆さんとのトラブルで反省するところが沢山ありました。
それぞれが持つ価値観は多様だと云うことも。
だから、あれ以来、写真愛好家が三脚を並べるような場所へは足を運ばないことにしました(笑)
秋の石鎚も元旦の石鎚もパスしました。
風雪さんやお山で顔なじみの皆さんと御無沙汰なのが寂しいです。
私自身の協調性の無さも含めて、もっと柔軟な生き方をしたいですね。
風に揺れる柳のような融通無碍な生き方…理想です。
現在、一番活躍されている風雪さんのその気力が羨ましい。
またお山でお会いできる日を楽しみにしています。
年末年始に読んだ本や観たTVの影響で、くたびれた頭をあれこれ捻っています。
言葉の意味を考えると「鎮まる」には、その前に心が穏やかでない状態があるわけです。
葛藤や懊悩を乗り越えた先に訪れる平安な状態を「心が鎮まる」と云うのなら、
それは劇的な変化の後に訪れる凪(なぎ)の風景なのだと思い至りました。
災禍が過ぎ去った後、心からの安堵なのでしょう。
それとは別に人が幸福感を感じるのは?
今の脳科学の知見では脳内の神経伝達物質による化学反応によると云われています。
以前にも紹介したようにセロトニンの分泌が大きな要素だそうです。
それもお金や物による私欲を満足させた時より、他者に手を差し伸べる利他の行為を行った時の方がセロトニンの分泌が多いいう結果が。
これって身近なところで考えても、よく理解できます。
赤ん坊に寄せる親の無償の愛情や恋人を想う心、猫や犬に癒される心も、
みんな、「他者をおもう想像力」の産物です。
私は人類がサルから進化してきた気の遠くなるような長い時間の中で
環境に適応させるため遺伝子的記憶として深く刻んできた共生の必然性だと思っています。
特にセロトニンの分泌が多いのが、反目する他者に手を差し伸べる寛容…
宗教者や聖人の慈悲は、より困難でハードルが高いだけにセロトニンの分泌も半端でないのでしょう(笑)
千日回峰の酒井阿闍梨も穏やかな顔をしています。
きっと私たちの想像を超えるような多幸感を体験しているのでしょう。
年始のNHKのドキュメンタリーに「ばっちゃん」という番組がありました。
非行に走る子供たちに食事を提供し続けてきた女性のお話でした。
制作スタッフがお婆さんに何度も「どうして、こんな事が続けられるのですか?」と尋ねます。
でもお婆さんは「何度もやめようと思ったよ。しんどいだけだからね」と応えません。
番組の最後にナレーションでかぶせる形で、
「子供から助けて。と言われたことのない人間には分からない」と独白を。
困窮する他者に手を差し伸べずにいられない人のセロトニンの分泌は、きっと半端じゃないはず。
神様は、そのように人間を創っているのでしょう。
厳しさの反対には暖かさがある。
アスリート達の全力の後には達成感がある。
阿闍梨の千日回峰は人々のために・・・
この写真の前には厳しい吹雪があったに違いない。
心鎮まる風景を改めて見た。