初詣は土地の神様たちを巡ることにした。
氏神、鎮守の神、産土(うぶすな)の神そしてお大師様も。
いつもお世話になっている里山散歩の素朴な神様たち。
初詣で賑わう有名な寺社仏閣よりも、私がより帰属感を感じるのは、
その土地に古くから祀られている素朴な里の神々。
グローバリゼーションという世界標準化の帰結として、ナショナリズムが台頭してきている。
偏狭な差別意識まるだしのナショナリズムが、ここまで大きな声となることが不思議だった。
理性的に考えると、他者を呪い続ける熱狂がいい結果を招くことなど有り得ない。
なぜ多くの人が、こんなに悪意に憑りつかれてしまうのだろう?
もちろん資本主義経済というシステムの果てしなき欲望の行き着いた結果、というマテリアルな部分は置いておいて。
よく聞くのが「帰属感の喪失」という声。
何処にも自分たちの居場所が無くなってしまうとういうアイデンティティーの喪失感。
それが「国」や「民族」という共有できると信じられる集合意識に傾いてゆく。
この帰属できる場所の喪失は、確かに足元が崩れるような怖さがある。
東京一極集中が進み、地方からどんどん人と活気が消えてゆく現状を見れば尚更だろう。
近代化の過程で安い労働力としての都市への人口移動とは別に、もう一つそれには、大きな原因があるようだ。
それは近代化を急ぐ明治という時代に起こり、日本人の心の深いところにある霊性の回路を閉じてしまった。
その土地に根差した古い神々を祀る聖所をことごとく破壊してしまった神殺しの神社合祀。
日本にあった神社の半数以上が合祀という形で破壊されたという。
神社合祀と神仏習合分離で日本の神々は、別のものに変わってしまった。
この神社合祀に真向から異議を唱え、農林官僚であった柳田國男や多くの知識人を動かし、
全国に波及した破壊を瀬戸際で止めることに成功したのが、民俗学、博物学の巨人、南方熊楠です。
その記録は柳田國男との往復書簡「南方二書」に記されています。
熊楠の住んでいた熊野(和歌山と三重)は、特に破壊が酷く存在していた神社の80%以上が消えたらしい。
神道の本質は、神を祀る社(やしろ)ではなく、それを包む手付かずの森にあるそうです。
神様のおわす森は、杜という字を当てます。
それ自体が神域なのです。
神域の森は、その土地の共有財産であり、
森羅万象に宿る神々と人間を繋ぐ霊性の回路だったのです。
だから土地の神を失くすということは、
その人が立つ存在理由の喪失であり、帰属する共同体の喪失でもありました。
神社合祀以降、残った神社には、消えてしまった古い神々が小さな祠に祀られ別の形で残っています。
そして神仏習合分離以前の神社には神宮寺という寺院があって神官が当たり前のように仏像を拝み加持祈祷をしていたそうです。
寺院に神様を祀っているのは、現在でもよく見ますが、神社に仏様は見なくなりましたね。
引き裂かれた日本人の基調をなす精神文化は、深い傷となって現在、根無し草の帰属意識の喪失という形で露呈しているようです。
話は飛びますが、近代化以前、日本人にとって「国」とは幕藩体制の「藩」でした。
徳川幕府による300諸藩といわれた地方自治制度は、
その土地の風土や人の気質を上手く集約して区分していたようです。
私の住む愛媛県でも南予、中予、東予では、風土や気質も微妙に異なっています。
その地域への郷土愛も、それぞれに違いがあるようです。
地方自治の次代の形と云われていた道州制も、最近はトーンダウンしてきました。
土地に対する帰属感を最優先すれば、廃藩置県の逆バージョン「廃県置藩」という提案も面白いかもしれない。
成長のない自給自足の成熟型社会の成功例なら、300年続いた幕藩体制でしたからね(笑)
鎖国は無理だろうが、来たるべき定常化経済?に備えて。
日頃、何の気無しに見ているものも違う。
近くの神社、寺参り、大賛成です。自分たちを育ててくれた土地土地ですから・・・
政治では地方活性化、人口減少の歯止めを戸言い続けて居ます。
Iターンも結構、しかし、地域に溶け込めない人たちも居る現実・・・これも人間のエゴでしょうか。
もろ教育には響いてきます。
都会の新興住宅地の現状を見れば分かる。
人間関係、地域への結びつきの薄さ・・・
ランスケさんの写真で癒やされます。
自分の生まれ育った土地に対する皆さんの溢れる想いです。
歳時記として綴られる四季の風景や土地の神様に収穫を感謝する祭礼。
それが一続きに宇和島という風土や人の気質(人情)となって伝わってきます。
グローバル化によるナショナリズムの台頭は、ある意味、自然な反応なのかもしれません。
いくら地球規模に経済や情報が行き交い文明の恩恵が広く浸透したとしても、
人が帰属感を感じるのは、せいぜいが可視出来る範囲内くらいなのでしょう。
(最後の画像、氏神様からの眺望。これが私の可視出来る範囲です(笑))
それと日本人が無信仰だというのは勘違いだと思います。
一神教のように絶対的な存在への帰依はありませんが、
日常の中に多様な神たちが息づいています。
それが、あまりにも自然なので特に信仰だと意識しないだけなのでしょう。
「野生の思考」を著した文化人類学者レヴィ・ストロースは、
「日本ほど自然の神々との交流である霊性と最新のテクノロジーが共存している国はない」と驚愕しています。
それと今朝の新聞に佐伯啓思が書いていたように、
天皇制というのは立憲君主制とは随分性格の違うものなのでしょう。
天皇は神を祀る祭祀の長なのです。
中心に霊性を司るシャーマンの一族を置く、日本という国は、やっぱり不思議な国です。
人間は誰でも心の底に しいんと静かな湖を持つべきなのだ (みずうみ)
とてもシンプルだけど、心に沁みる…
そこに降りてゆくと、透き通るような清浄感に満たされ、
しんと魂が鎮まるようだ。