先日の記事「ひそやかな水音に耳を澄ます…」に寄せられたカタックリさんのコメント
に対する返信のかたちで末尾に記したことがらに暫く頭を巡らしていた。
エコバックやマイおはし…の使用は、もう一年以上になる。
ささやかな環境に対する配慮というよりも、
増え続けるゴミ対策というのが正直なところだ。
スーパーでもらうレジ袋は際限もなく増え続ける、
コンビニでもらうお弁当の割り箸も同様に増え続ける。
当時、新聞やTVで話題になっていた「エコバックやマイおはし」は、なんとなく恥ずかしかった。
あるコラムでも、効果を疑問視し、エコブームのうわっつらをなぞるような現象として酷評していた。
でも、どう考えてもレジ袋や割り箸それに食品の過剰包装は、いらないと思う。
子供のころは、当然のように買い物籠を下げて買い物に行き、
八百屋さんや肉屋さん、魚屋さんで商品を新聞紙や竹の皮で包んでもらっていた。
醤油や味噌も量り売りをしていたように記憶している。
充分それで「ことたりていた」はずなのです。
毎日増え続けるゴミを前にして途方に暮れることもない。
もっと暮らしのなかで消費される商品は循環していたように思う。
確かに私たちの暮らす自由主義経済圏では、消費を煽ることでモノと金が流通して
豊かになったような幻想を抱かせることが必要だったのでしょう。
遠い未来と思っていた21世紀も10年が経過して、
やっと私たちは自分の立っている場所が、どんな酷いことになっているか判ってきた。
子供たちは未来に対して希望を見い出せないと答え、毎日のように荒んだ事件が報道される。
果てしもない消費(蕩尽)のエンドレスゲームの行く末を危惧していると、
幸か不幸か、この長引く不況が私たちの消費欲を自然発生的にトーンダウンさせてくれた。
未来に対して以前のような「モノが流通することの豊かさ」への幻想を抱くことはないだろう。
ほんの少し我慢をする…「ことたりる」という感覚を思い出してほしい。
無印の生成りのトートバックと桜材のおはしが、いま重宝している。
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