この映画には偶然出会った。
週末に借りたDVDのなかに中央アジア、キルギスの映画、「あの娘と自転車に乗って」があった。
この映画自体は、思春期の少年たちの日常と淡い恋情をキルギスの美しい光と風の印象のなかに描く
素朴なつくりの映画で、どちらかというと退屈だった。
ほとんどモノクロームの映像で撮られ(部分的にカラーが入る)その映像センスには目を引くものがあった。
むしろカラーで撮った方が効果的ではないかという思いが、映画を観ながらずっと尾を引いていた。
このとき一緒に借りた、チャン・イーモーの「あの子を探して」の方が、作品として印象深かったし、
どちらかというと、この映画の方をブログで取り上げようかと思っていた。
ところが偶然、この映画の監督であるアクタン・アリム・クバトの最新作「明かりを灯す人」の予告編と出会った。
(あわせてキルギスの映像も一緒にどうぞ)
まずそのカラー映像の美しさに目を見張った。
なんという色彩感覚。そしてその光と影の鮮烈な印象。
やっぱり私の感は正しかった。
いや、そんなことが言いたいのではない。
村の電気をすべて風車からの発電で賄うという、そのシンプルで自立的な暮らし、そうサスティナビリティ(持続可能な)選択肢に注目した。
また国と電力会社は夏の電力不足を煽り続ける。
前原(言うだけ番長)政調会長は、原発を再稼働させないと計画停電もありうると恫喝する。
でも、ちょっと冷静に考えてほしい。
8月のピーク時の電力が不足するということでしょう。
暑い夏の間、ずっと電力不足なわけじゃない。
一日のなかで電力消費量の多い数時間だ。
ちょっとエアコンを止めて我慢すれば済むことだ。
(もちろん無駄な電気は極力使わない)
大量に消費する企業や命にかかわる病院は、それに備えて自家発電(低コストで優れた天然ガス自家発電機が開発されているようだ)を導入すればいい。
ピーク時の数時間くらいなら、それで賄えるだろう。
設備投資の余裕がないなどと言わせない。
原発事故によるリスクと比べれば、どう考えても対リスク効果は一目瞭然だ。
5/9付の朝日新聞の記事にも出ていたように、福島第一原発からは現在も毎時1000万ベクレルのセシウムが放出され続けている。
(具体的な放射能の数値は、このとき初めて知った)
昨年早々に福島第一原発の収束宣言をして、あたかも放射能の放出が止まったかのように錯覚させていたが、とんでもない。
未だ放射能を大気にまき散らせ続けているのに、
電力不足を煽って原発を再稼働させようとしている。
私たちは、もう真剣に電気を自前で賄うことを考えた方がいい。
電気は買うものでなく自前でまかなうものだと。
個人で賄えないのならば地域で賄うという方法もあるだろう。
もちろん企業や病院も。
事故の張本人である東電や保安院の原子力ムラからは、誰も責任をとらないまま、
東電のために何兆円という税金をつぎ込み、さらに電気料金を値上げし。その上、また原発を再稼働させないと停電だと恫喝する。
彼らには倫理観の欠片もない。
時代劇の決まり文句のように「無法な乱暴狼藉のし放題」
京大の小出さんも「除染によって放射能が消えるわけじゃなく、ただ移動させているだけ」と云っている。
私たちは未だ降り続ける放射能の大地に住んでいる。
地球上で最も汚染された場所に。
こちらは大雑把な共同通信と違って毎日5分ごとに更新されますし全国各地を網羅しています。
毎時1000万ベクレルの世界で暮らしてゆくには貴重なデータです。
福島の事故は、未だ人類が経験したことがない最悪の原子力災害なのです。
アメリカの原子力技術者、アーニー・ガンダーゼン氏も言っています。
また広島、長崎同様、日本は核の実験場となっています。
それなのに、まだ懲りないのですね。
科学はデータ、データと繰り返し、どれだけの犠牲を出せば気が済むのでしょう?
私の住む四国の松山市、そして対岸の広島市に山口市もそれから九州の大分市もそれに近い。
これは、ひょっとして伊方原発からなのか?
福島の高レベル汚染地帯と変わらないじゃないか。
これマジ?目がテンです。
否、たぶん原爆のせいです。
長崎を調べると同様に高い数値です。
ただし、こちらは年間線量が出ていませんが。
原爆投下から60年。
まだ放射能が消えるわけがありませんよね。
札幌も高いし新潟も高い。
三重県の尾鷲が高いな。
四国は高知以外は、徳島も高松も高い。
九州は全体にどこも高い。
これはどういう事なのだろう?
60年前の原爆のせいともいえなくなった。