秋は近所の公園まで下りて来た。
光が美しい、黄昏の時間まで待って出掛けてみた。
一面に落葉が敷きつめられた散歩道に西陽が射す。
黄金色の光に包まれ、なんだかとてもゴージャスな気分。
落葉を蹴散らし駆けてみた。
しっとりJazzのスタンダードな雰囲気の秋の公園なのに、不粋な奴。
秋は近所の公園まで下りて来た。
光が美しい、黄昏の時間まで待って出掛けてみた。
一面に落葉が敷きつめられた散歩道に西陽が射す。
黄金色の光に包まれ、なんだかとてもゴージャスな気分。
落葉を蹴散らし駆けてみた。
しっとりJazzのスタンダードな雰囲気の秋の公園なのに、不粋な奴。
晩秋の京都、楽しみにしています。
週明け12月に入ってから、強力な寒気がやって来ました。
四国の山にも雪を降らせる本格的な冬の到来です。
わくわく…
う~ん我慢出来るか?
晩秋の古都は暫し煩わしさからの解放の如く決して飽きさせることのないものでした
今現実に戻りこれからの闘いの備え心の準備をしなければなりません
650もの画像はちらり見ただけですが設定ミスなのか故障なのかブレやボケが目立ちます
faceBookの更新を今終えたところです
明日画像送ります
年ですね、疲れて荷物もそのまま、掃除もしたくない
今日は一日、先週末まとめ買いした本を読み散らしています。
一段落して山崎雅弘のツイートを見ると鋭い。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki
「誰か投票するに値する候補者を用意してくれるなら、選挙に行ってやってもいい」
「それができないのは『政治サイドの責任』であり、俺の責任じゃない」
国民が命がけで「民主化」を勝ち取った国では、こんな子供のような甘えた発想は出てこないと思う。
日本の民主化は棚ぼた的で、あまりに安易だった。
欲しい商品がお店に無いから買わない」と同じ感覚で
「入れたい政党が見当たらないから投票しない」棄権行動を、
想田和弘さんは「消費者民主主義」と表現されているが
実際には「形式だけ民主主義を真似た別の何か」だろう。
民主主義国の市民は、死ぬまで選挙で有効票を投じる「義務と責任」を追う。
それは、とても大切なことだと思います。
あなたや津守くんは、きっと有形無形の言葉では尽くせない恩恵を、
仁さんから受け取ってきたのでしょうね。
それを返してゆくことは、残されたあなたたちのささやかな恩返しなのだと思います。
それもまた、亡き人を安らかに送るための物語なのかもしれませんね。
私が仁さんと関わったのは美大受験のための一年間だけだったので、
あなたたちのような感慨を抱くことが出来ません。
それもまた、残念です。
残念なのはもうひとつ、以前のようなキャッチボールが出来なくなったことです。
最近のホッホさんは、自分の見たい世界しか目を向けなくなってしまいましたからね。
鬱陶しい話題を避けたいという気持ちが分からないわけではないけど。
私が習慣的に本を読み続けるのは、純粋に知りたいからです。
本は読めば読むほど、自分が何も知らないことを思い知らされます。
自分の無知を自覚することも読書の効能だと思いますよ(笑)
このブログのフォロアーだと思っていたのに、ホッホさんは何も見ていないのですね。
確かに人間は自分の見たい世界しか見ていないようですが(笑)
私は15年以上石鎚へ通い続けていますが、一度も滑落事故で骨折したことはありません。
昨年2月、厳冬期の石鎚山上で右足首関節を骨折しました。
これは夜間の暗闇で凍結箇所に足を滑らせ転倒したための事故です。
滑落ではありません。
そして今年の2月に松山市内でバイクの事故を。
これは自動車と衝突してバイク全損の大きな事故だった割には、私自身は軽傷で済みました。
そして3度目は東北への自転車旅における悲惨な結末、鎖骨骨折でした。
確かに、この2年間で3度の事故は多過ぎます。
その原因が自分自身にあることは自覚的であるべきだと思っています。
まぁ、しばらく我慢です。
ホッホさんも年末にかけて忙しいでしょうが、お薦めした2冊の本は読んでくださいね。
今、日本で何が起きているのか、目を逸らせないでほしい。
秋が近所の公園まで下りてきた。光が美しい、黄昏の時間まで待って出掛けてみた。----相変わらず素晴らしい詞的表現に唸りました。
写真も文章もランスケさんも黄昏てます。
淺山仁先生の回顧展に向けて準備中です。
参考に伊丹十三記念美術館に行きました。
私の頭の中は抽象的な構成でしたが、かなり具体的な方向性がみえてきました。仁さんと同じ「知の巨人」ランスケさんにも今後色々相談や協力をお願いするやもしれません。
その節はよろしくお願いします。
10月26日に赤瀬川源平さんが亡くなりました。
いろいろ影響された大好きな作家でした。
仁さんが「えひめ雑誌」に真帆滅人というペンネームで美術のコーナーを連載していました。
その中で赤瀬川源平に触れています。
その号はパウル・クレーについてでした。
この様な書き出しで始まります。
ひさしぶりにパウル・クレーの展覧会をみた。
昔、学生時代に鎌倉の美術館かどこかでみて以来のことである。一昨年オープンしたお隣の高知県立美術館で開催されたものだが、こういった地方で身近にお目にかかれる機会が滅多にない展覧会だけに単純にワクワクしてしまった。
クレーは中学時代の図工の教科書に載っていた水彩画の図版をみてからの付き合いで、何となく魅かれる作家の一人であった。抽象性の強い絵にもかかわらず、奇妙な温かさとさびしさを感じさせる、とりわけその色彩のもつインパクトが強かったように記憶している。当時は、というか、その時代は個人的にはもっぱら写実的な絵を嗜好する傾向が強く、セザンヌやゴッホさえあまり好きではなかったのだが、クレーだけは例外であった。今でも多少、絵の見方や感じかたは変わっても一貫して一ファンであることに変わりない。
今回の「パウル・クレー展」の特徴はクレー家の秘蔵のコレクションよりということであって、その青年時代(美術学生時代)の小品(古典的、写実的な水彩画)と円熟期以降の晩年に至る、まさにクレーを象徴する作品群が、その生涯を区切る時代ごとに6期に分けて系統的にわかりやすく展示されていることである。作品保護のための館内照明が極端に制御されている中、目が慣れてくるにしたがって次第にクレーの微妙な色彩や形が浮かび上がって来るのが何ともクレー的な感じがして、照明に対してはあまり悪い気は起らなかった。
それにしても、ゆっくりと巡回するにつれ、この作家のひたむきさ、一途の無垢さに改めて感銘を覚えると共に、赤瀬川源平が面白いことを書いていたのを思い出した。それによると、つまり、いろいろな画家の真似をしたが、クレーだけは真似が出来なかったというのである。「クレーの絵は一見すると模様みたいに見えるのだが、微妙なところで絵なのである。その微妙な、わずかなところが掬い取れない。それがどうしてなのかからない。」と回想している。
パウル・クレーは彼自身が唱えた<分割的なもの>と<非分割的なもの>の統一といった絵画理論を一方で推し進めながら<言葉=記号>と<絵画>の統一をめざしていたと思われる。だが、そこからはみ出した何かが強烈にあったのだと思う。おそらく最後はそこに行き着いたのではないのだろうか。晩年の夥しデッサンはそのカタチを表明してはいないだろうか。限りなく無垢な始原的なものに還るというカタチを。
真帆 滅人
このような感じで、毎月号、何十巻とあります。
このコーナーだけでどの様にまとめてどう美術館で見せればよいのやら?
突然ですが最近観た映画で面白かった2点です。
ウディ・アレンの「ブルージャスミン」主演:ケイト・ブランシェットの演技(栄華の絶頂からどん底転落。鼻白んでいく様)最高でした。ケイトは「ギフト」「バベル」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」ほか多くの作品に出演しています。
アカデミー賞5部門受賞の「アーティスト」主演のジャン・デュジャルダンの最新作サスペンス「メビウス」男の色気と魅力が満載 「007スカイフォール」のダニエル・クレイグ顔負けの色気です。
石鎚に200回以上登っても卒業ということはないでしょうね。(三浦さんや福島さんをみるまでもなく。)
3年続けて滑落事故に会いそうになり骨折もしました。
鎖骨の骨折は全治に1年位掛かりそうですね。
今年は、登らないという動機付けでモチベーションを山や森だけではなく他のジャンルにも力を注いがれてみてはどうですか。
他ジャンルも高水準で見応え読みごたえがあります。
では、では、またお邪魔させてください。
やっぱり御存知でしたか。
世界の辺境を旅されているMUGAKUさんなら同郷の写真家、野町和嘉の
写し撮る世界に惹かれるのじゃないかと思っていました。
星野道夫と共にスケールの大きな独自の世界観を持った写真家ですよね。
どうも最近の日本人を見ていると無宗教であることが、ノーマルでバランス感覚がいいと
勘違いしている人が多いように思えます。
私自身も最近までそうだったので、偉そうなことは云えませんが(汗)
信仰を持たない人間は、やっぱり何処か歪な存在なのだと思います。
(特に近頃、急速に増殖している「日本教」ともいえる歪な愛国心を見ていると)
以下に野町和嘉の「祈りのかたち」という動画を貼っておきます。
http://www.nomachi.com/mov/n-mov.cfm
それは、修験者の眼光で撮っていたと理解し、納得です。
15年間の厳冬期石鎚山登山は、正しく「祈り」の時間であったと想います。
日本伝統文化の「刃金」は、適切な処置をすれば、切れ味は劣化することは無いと言われています。
ランスケさんの今流れている時間は、「適切な処置」である様に想います。
私の歩みは、若き日も今も「ヨロヨロ・フラフラ」です。
従って「ホンモノ」に接する事で不足分を補っています。
ランスケさんが記述していた、「野町 和嘉」さんは高知県出身です。31年前(?)に「BAHR」の出版記念講演があり、その場で言葉を交わした思い出があります。「BAHR」の中にある、真っ赤に染まった落日の「ナイル」を渡り、キツイ1日農仕事を終え、家路に急ぐ「農民」の写真には、「こころ」が震えました。
また、「モロッコ」の「族長・タンタン」のカットでは「大人の理想」を感じ、畏敬の念を覚えました。
ランスケさんの記事で、スッカリ遠くになっていた「モノ」が甦りました。 謝謝!!
「辛抱の秋」へのコメントではなかったのです.
ただ単純に本文の“不粋な奴”に引っ掛かっただけです.
折角のモノが自虐ネタで終わってしまうのは如何なものかと思ったしだいです.
自転車ネタ,結構です.
身辺雑事でも構いません.
それへのランスケさんの言葉が聞きたいのです.
ヘタな随筆を読むよりも面白い(勉強になります)ですから.
お山に関してはどうか無理をなさらずに.
ランスケさんの眼で観た里山も,街角のスナップも十分に楽しませて頂いています.また,
そんな見方も有りかと勉強になります.
くれぐれも無理をなさらずに.
ではまた
身体がままならないので、近場の自転車ネタで誤魔化しています(汗)
まぁ、後しばらくは、こんな感じなので御容赦を。
でも身体が回復して、また雪山へ入り厳冬の風景と向き合うことが正解なのか?まだ疑問です。
15年間、石鎚の雪山へ入り撮影を続けて来ました。
その99%が山上で、厳しい夜を過ごしてきました。
その意味では石鎚信仰の修験者より私の方が、
厳しい修行を重ねていると思っています(笑)
山岳信仰の御神体である山自体に、ずっと向き合ってきたことを考えると、
これが私の信仰心なのか?
祈りの形なのか?とも思います。
これが私の祈りの風景ならば、今年も雪山へ入ることの動機づけが出来そうです。
勝手に自問自答の末に完結してしまい、申し訳ない(汗)
読ませますね
魅せますね
レンズフレア迄計算されてselfとは.
ただ 最後の一語は・・・
では,また
nobu*でした
身体は順調に回復しているように見えます。
唯、相変わらず加重制限の縛りは解けません(汗)
一時は、このギャップに自ら枷を解こうとしました。
でも僅か一ヶ月くらいの辛抱。
なんとか理性が勝ったみたい。
どうせ、この季節は端境期の霧氷風景と納得。
本格的な雪山シーズンまでは、まだしばらくの猶予が。
苦しいです(汗)
秋はもう里まで下りてきました。
良い色に染まっていますね。
ランスケさんまで溶け込んでいるようです。
宇和島も紅葉真っ盛りです。
まもなく冬・・・日が経つのが早いこと!