今年の桜は、何時になく遅く感じる。
でも、記憶の糸を手繰ってみると、
卒業式の桜よりも入学式の校庭に咲く桜の方が記憶に残っている。
近年は温暖化傾向が顕著で、年々桜の開花が早まっているが、
本来は、こんなものじゃなかっただろうか?
四国の桜は4月10日前後に満開を迎えそうな様子?
週明けは、一気に春が加速した。
ぐんぐん気温が上がって20℃近くまで上がる汗ばむ陽気。
まさに春本番のお花見日和なのだが…
残念ながら桜は、ほとんど蕾の二分咲くらい。
早咲きのヒカン桜の仲間(陽光桜?)や白い花片の大島桜や、
何故か早咲きのソメイヨシノがチラホラ。
市内の桜の名所を、ぐるり自転車で巡ってみた。
護国神社、幼少期を過ごした場所。
昔は、もっと境内の森も広かった。
蓮池もあったし、裏山の御幸寺山(御神体)も含めて遊び場だった。
此処の神様が一番偉いと、幼心に刷り込まれていた。
そのまま真っ直ぐ育っていれば、立派な国粋少年になっていたかも?
大人たちの都合のいい嘘に気づかなければ。
道後温泉、ここも桜の名所。
御堀の枝垂れ桜も枯れて、桜の世代交代にある。
山口晃画伯の道後大和絵鳥瞰図絵はカッコいいな(笑)
上の写真は、八坂寺で出会ったお遍路さん。
なんと台湾からやって来た歩き遍路、陳永昌さん。
今日で歩き始めて30日目だという。
流暢な日本語を喋る。
よく聞かないと異国の人だと気付かないくらい。
「候孝賢(ホウ・シャオシェン)が好きだ」と言っても、通じなかった。
若い人にとって、この偉大な映画監督は、もう過去の存在なのだろうか?
それとも、私の中国語の発音が悪かったのか(笑)
下の画像は、木蔭にある蜜蜂の巣箱。
ここは大きな桜の樹のある丘の上の草地。
慎ましい畑と果樹園の広がる楽園のような場所。
ここの桜も、まだ早かった。
最後の一枚は、黄昏の光の中、お花見の喧噪から離れ、寛ぐ人たち。
何故か、其処だけ別の空気が流れていた。
喧騒の中のお花見より、最後の一枚の長閑な風景、いいですね。淡い桜の写真は心癒やされます。古きいいもの、変えなければならないもの、ありすぎて・・・
週明けからの気温の上昇で、日に日に桜も花を綻ばせています。
でも、気になるのが、今日から週末にかけて降り続ける雨です。
気温が低ければ花も保ってくれますが、20℃以上の気温では開花が進みます。
花散らしの雨にならなければ良いのですが…
台湾からの歩き遍路さんとの出会いは、
八坂寺境内に咲く満開の大島桜が縁でした。
この早咲きの白い桜を熱心に撮影するお遍路さんに声をかけました。
同じ漢字文化圏ということで筆談を交えての素朴なコミュニケーションでした。
私も彼のスマホでツーショットされFBにアップされた様子(笑)
後20日間で結願予定とか…無事結願を祈っています。
花が咲いていなくても、桜の名所は花見の宴で賑やかでした(笑)
公然とお天道様の下、呑める貴重な遊山の機会ですからね。
最後の写真は、黄昏の光の中、喧噪から離れて芝草に寝転がる恋人たちと、
もう一人ベンチに座るおじさんの対比が絶妙でした(笑)
森友学園問題で露呈したカルト教団のような園児唱和の動画で、開き直ったのでしょうか?
以下、小田嶋隆のコラム、「教育勅語は、なぜ必要か?」は、ぜひ読んでほしい。
教育勅語には、親を大切にすることや、人が謙虚に生きるべきであることや、
仕事に励むことをはじめとする一般的な徳目が数多く列挙されている。
であるから、教育勅語を擁護する人たちは、
もっぱらその点(教育勅語の中に人としての望ましい徳目が数多く挙げられていること)を強調することになっている。
でも実際のところ、教育勅語を称揚する人々が子供たちに本当に伝えたいと思っているのは
その部分ではない。
親孝行や友達と仲良くすることを教えるのだったら、何も教材は教育勅語でなくてもかまわない。
そこいらへんの漫画でもショートストーリーでも、なんなら子供の書いた作文でも十分にその役割を果たすことができるはずだ。
というよりも、親孝行や謙虚さや勤勉さや協調性は、授業の中でとりたてて項目を立てて教えるより、
子供たちが家族や共同体やクラスの中で普通に人間同士のやりとりをしていれば、
自然に身に付くはずで、そのほうが社会としても望ましいはずなのだ。
ではなぜ「教育勅語」を持ち出さなければならないのか。
それは、特別な道徳を語らなねばならないからだ。
たとえば、「天皇」への尊崇の念、「国家」への忠誠心といった、子供には難解な概念を彼らの第二の天性として身につけさせようと思ったら、
その教材は、やはり教育勅語でなければならない。
逆に言えば、教育勅語を教材に採用しようとしている人たちが、
子供たちに伝えたいのは、「教育勅語の中の憲法に反する部分」だということだ。
最後の方にある
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
という部分を子供たちの心に定着させることができるのは教育勅語だけだ。
自己犠牲。
挺身。
私心の排除。
その種の道徳は、教育勅語でなければ、その真髄を正しく伝えることができない。
だからこそ、彼らは、勅語(天皇のお言葉)という形で提供される、
その前提からして日本国憲法の精神にそぐわないあの文書を教育現場に召喚しようとしているのだ。
人間よりも、国家が大切であること。
感情よりも形式が重んじられるべきであること。
自己犠牲がなによりも美しい心情であるということ。
国民のために利便を提供する国家を建設するのではなく、国家のために命を捧げることのできる国民を育てあげること。
そういうことを、彼らは成し遂げようとしている。
でも雨続きで、うすぼんやりとした昼行燈のような光。
どう写しても精彩に欠く。
明日は晴れるかな?
光り輝く絢爛の桜色に染まりたい…
毎日毎日、気分の滅入るニュースばかり。
どうして男たちは、こんなにも愚かなのでしょうか?
女たちの小気味のいい啖呵でも聞いて憂さを晴らしましょう(笑)
茨木のり子 bot @ibaragi_noriko ·
佳きものへの復元力がないならば それは精神文化とも呼べず
もし 在るのなら 今どのあたりで寝ほうけているのだろう
高峰秀子 @HidekoTakamine ·
男たちは戦争をした。男たちは戦争に負けた。
自業自得である。
ワリを食ったのは女たちである。
「付き合いきれない」。
それが女たちの本音だった。
敗戦を境にして、「女が強くなった」と、私は思わない。
けれど、敗戦によって、女がはじめて男の正体というものを識ったのは事実だと思う。