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山三 三ツ屋染舗の歴史4

2013年04月19日 | 山三 三ツ屋染舗について

皆様こんにちは

山三三ツ屋染舗の三ツ屋邦孝です。

祖父喜代松逝去後、祖母と両親が印染(しるしぞめ)よりも洗い張りをメインに店を繁盛しさせまいた。

店の持ち込みだけでは、限界だったので、クリーニング店の下請けの仕事も始めたそうです。

昭和30年代当時は、高度経済成長時代でクリーニング店の外交も自転車からオートバイに変わり出しました。

当店も伸子張りによる仕上げから湯のし(テンター式湯のし機)仕上げ機を導入しました。

そんな中、三代目の私は、昭和36年に生まれました。

当時洗い張りは、仕上げの機械湯のし機以外すべて手作業でしたので、

両親は忙しくいつも仕事ばかりしていました。

当時、ふとん屋さんの座布団の洗い張りを頼まれました。

座布団の中綿は打ち直しをし表生地を洗い張りを当店で作業を行いました。

座布団の生地は幅が広く機械湯のしの機械には掛からなく、手湯のしで仕上げました。

手湯のしには三人が必要なので、物心の付いた三歳の頃、母から良く

「子供用のお仕事があるのでお手伝いして」とそそのかされ(笑い)良く手伝いをしました。

また絞りの手のし等は「手のしが三枚あるから手伝って」と言われ三パーツが終わり

「もう終わり?」と聞くと「まだ一枚も終わってないよ」と言われ訳が分からず、

着物一枚は四つのパーツに分けられていて三枚は12のパーツに分けられていました。

良く母親に騙されたものです(笑い)。

同業者の高齢者の方が良く

「俺はアンコ(北海道の方言であんちゃんの意味で小学校卒業後13歳)からやっている」

と豪語されていましたが、

私はおしめをしながら家業の手伝いをしていたとは、とても恥ずかしく言えませんでしたが、

今ではそれが自分の誇りになっています。私現在51歳ですが、職歴は48年です。

現在の労働基準法違反の両親でした。(笑い)

私が低学年の頃に当店は車がなっかたので、時々母に連れられ一キロほど離れた

得意先に仕事の集荷へ出かけました。

一反風呂敷に着物を二十数枚受け取り、母がそれを背負い家まで歩きました。

途中でタクシーに乗る為手を挙げましたが

止まってくれるタクシーはいませんでした。

「きっと夜逃げに間違われたんだね」(昼間でしたが・・・・)と笑っていました。

昭和40年代は、景気も良くススキノのお姉さんもみんな和装でしたし、

まだドライクリーニングも今ほど技術が悪く丸洗い(ドライクリーニング)をすると、

型崩れ(袋になる)を起たり白い生地がねずみ色になったりしていましたので

着物の洗いの主流はや洗い張りでなければダメとゆう事で、

どこの洗い張り店でもたくさんの仕事がありました。

作業場が家の中だったので両親の作業の様子や会話等からたくさんの事を学ぶ事ができました。

今の私の財産になっています。

 

着物のお手入れでお困りな方は、

厚生労働大臣認定一級染色補正技能士のいる

山三 三ツ屋染舗にご用命下さい。

〒062-0902

札幌市豊平区豊平2条2丁目2番20号

電話011-811-6926 FAX011-811-7126

メール mitsuyasenpo@train.ocn.ne.jp

ホームページ http://328senpo.sakura.ne.jp

営業時間 平日(月曜~土曜) 午前8時~午後6時

休日 日曜 祝日

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