徒然スキーヤー日記

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焼額山スキー場の歴史を振り返ってみる3…スキーバブルからオリンピックまでの,志賀高原スキー場ピークの時代

2020-09-24 03:48:00 | スキー雑談
えー.今回は.
第1回,焼額オープン時の1984シーズンの様子,
第2回,第2ゴンドラができる1988シーズンまでの歴史
につづく,焼額山スキー場の歴史の第3回.
1989シーズンから,オリンピックの
1998シーズンまで.
黄金の10年間の歴史を振り返ります…

ということで.
5年目の1988シーズン,第2ゴンドラ側がオープンして
一気にエリアが倍以上に広がるとともに,一の瀬と
繋がったわけですが.


その翌年以降も,まだまだ焼額のパワーアップは続きます…

○6年目 1989シーズン

この年,第3高速リフトが完成!

第3高速につながるイーストコースと,
(できた当時はナイターコースって言ってた気が…)
…記憶が確かなら,そこにつながる
スーパージャイアントスラロームコースも
同時に完成したような気が…
あ,そうそう.
この年にはまだミドルコースはできてません.

で.この年から,東館のナイターは,
1ロマA線でのナイターが終わり,
第3高速がナイター営業になったんですよね…

…そういえば,前回の記事で書き忘れてましたが.
1ロマをA線,B線で2分割した大きな目的
A線の緩斜面側でナイター営業ができるようにする
というのがあったことを書いてませんでした…

いやー.
しかし.
ゴンドラ&高速リフト2本かけた次の年に,
フード付きクワッドを架けて,
ナイター設備も作るとは…!!

当時はまだ高速リフトが珍しかった時代.
高速リフトが3本もあるスキー場は,
激烈に贅沢で,当時ほぼ日本最高の輸送力を
もったスキー場だったんじゃないかな…

こんなものを,2年間で志賀高原に作り上げた
国土計画の恐ろしさ.
当時は長野オリンピック開催が決まり,
岩菅山もスキー場にするんだ!!!
と,国土計画の鼻息が荒かった時期でしたね…

○7年目 1990シーズン
このシーズン,私は志賀高原に行ってないのですが…
確か,焼額は何も変わらなかった気がします.

○8年目 1991シーズン

この年も,まだまだ焼額は投資が続きます.
バブルが続いてます.
この年,
第4ロマンス
が完成しました!
同時に,第4ロマンス沿いのナイター設備も
出来たんじゃなかったかな?

これで,東館宿泊者は第3高速,
南館宿泊者は第4ロマンスでナイターが
滑れるようになりました…

なので.
昨年ナイター設備を作り,「ナイターコース」と命名した
第3高速沿いのコースが「イーストナイターコース」
第4ロマンス沿いのコースが「サウスナイターコース」
という名称になったんじゃなかったかな?(記憶不正確)
…いまは,「ナイター」が取れて
「イーストコース」
「サウスコース」

になってますね…
今は,サウスコースは貸し切り以外でナイターを
やらなくなって,寂しい限り…

当時は,昼間にスキー場がかなり混んで
あまりたくさん滑れなかったので.
ナイターまで滑ろう…って人が多かった
ですね~.
ナイターもかなり人がいた思い出があります.

で.そのほかに.
この年に,今はビギナーズコースと呼んでいる,
パノラマインコースを滑った思い出があるので.
この年かこの前の年に出来た気がするのですが…
当時はすごい幅の狭いコースで,
滑りにくかった思い出が…

○9年目 1992シーズン

そして.
この年,焼額にまた新しいリフトが架かりました!
そう.イチゴン山頂につながる,
第5ロマンス
です!
これで,焼額のゴンドラ&リフト,全て揃いました!
リフト・ゴンドラに関しては,
この時に完成した11本体制がピークです…


この第5ロマンス.
乗り場が非常に見つけにくいところにあり.
GSコースとSGSコースの分岐をSGS側に
入ってから,突き当り右に大きく曲がるあたりに
あったのですが.
オリンピックコース側からは入りにくいし.
1ロマBから乗り継ぐのは大変…

だもんで,全く人気が出ず,人が乗っていた
ことは無いし.
そもそもシーズンでも,正月のすごい混んだ
時期とかしか動かず.
このリフトが架かったのはいいけど,
動いているのは数回しか見たことが
ありません…

焼額マニアの私でも,
2回しか乗ったことがない
という,超レアもののリフトでしたね…

焼額は…というか,志賀高原はこのころから
オリンピックの1998年までがピーク.
焼額は,この最大構成のリフト陣容がしばらく続きます.

○10年目 1993シーズン

この年は,コースやリフトの変化は無く.
志賀高原のゲートが自動化
して,全リフト・ゴンドラにゲートが
ついたのが大ニュースでした…!


○11年目 1994シーズン~13年目 1996シーズン

投資が一区切りついたのか,しばらく変化のない
シーズンが続きました…

○14年目 1997シーズン

この年,プリンス西館ができました!
…これにて,焼額に現在揃っている設備,
全て完成です!!

…あとは現在に向かって縮小するのみ…(涙)

そして,多分.
ここら辺記憶があいまいなのですが…
この年あたりに,第3高速の横,
イーストコースと逆側.赤く印した
ミドルコースが出来たんじゃなかったかな…??


確か,ミドルコースと同時にミドル連絡コースも
できたような思い出があるんですが…
1999年の志賀高原全山マップを見ると,
ミドル連絡コースはこの年はまだ
なかったようですね…

ってことで.次はついにやってくる,オリンピックの年.

○15年目 1998シーズン

この年は長野オリンピックの年!

長野オリンピックのアルペン男女回転.
スノーボード大回転が,
当時のスラロームバーン,今の呼び名では
オリンピックコースにて開催されましたね…

オリンピック開催前,数週間前からガンタイプの
人工降雪機で雪じゃなく水を撒いて,
ガチガチに凍らせていたのが印象的でした…

…焼額のコース自体は昨年と全く変わりませんが.
イーストコースの競技ゴールになるあたりに
プレスセンターの建物とそこにつながる道が
造られ,ゴールをぐるっと取り囲むように
仮設スタンドが建てられてました.

今でも3高に乗ると建物の跡地と道路の
トンネルが見えますが.
オリンピックコース途中から下を見た時に
見えるこの平地が,プレスセンター跡地の
はずです…


で.
この年は.ミドル連絡コースと今は無きエキスパート
コースが無いくらいで,コース・リフトとも
ピーク.
この頃は,この平和がいつまでも続くと
思っていたのでした…

(まだ続く…次回は1999年の志賀全山スキー
 マップから,ピーク当時の志賀高原スキー場
 全体の様子を掲載!)
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