夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

息子との会話

2017年04月02日 09時09分43秒 | 日記

兄は三年目の浪人生活に入る。大阪に出てアパート借りてそこから予備校。弟は追試験落ちて退校。トライ式高等学院の近くに部屋借りて生活しながら先生に来て貰って勉強するらしい、大変だね。

兄はもう21になってた。そこまでして医学をやりたいのか!? 俺には分からない。色々聞いたが二人とも世の中の希望的側面だけしか見てないようで危ういように思う。君はどう思うかな?

自分を振り返って見て思った…結局親が子供たちに何を言ったか言わなかったか?の問題じゃない、育った家庭の謂わば土壌がどうだったか、が子供たちに物凄く影響する。親に悪意なぞ無くても尊大な上から目線の家庭に育ったり世の中の美味しいところばかりを眺めて生きるような家庭に育つと往々にして自意識が肥大化して地道な努力を怠り、夢や言葉だけが大きくなる。

もしかしたらこの兄弟も家庭も現実感覚が薄い、世間の非情さ冷酷さが分かってないんじゃないか?僕や母さんは君を通じて、君の挫折、苦闘する様を見ていて日本社会の【弱者を打ち叩く、大多数の在りようから外れた者に対する冷酷さ】を思い知った。
あの兄弟、家庭が今からそれを体験するのかと思うと気分は暗い。
 
日本社会は人の在りよう、生き方に暗黙の型があってその型に嵌まらない者を排除しようとする。そう思わないかい?
 
 
その考察は全く正しい。外国人と血まみれの戦いを繰り返し、みんな違う、なにか、みんな違うままで従える共通のルールはできないか?それがヨーロッパ。公共のルールを守れば、おれが常識を変えてもいい、という考え。

日本は、みんな同じにならねばならぬ、という考え。だから、人とか世間、それこそ空気、間、常識に基準を求めてしまう。

だから、常識を変えるようなものは出てきにくい。抑圧された夢やセンスが、着物、小物なんかで独特のセンスとして、小さい、カワイイ、で出てくるのかな。

この一家についても、全く同じように思うね。心配だね。

結局投げてしまった

2017年04月02日 08時30分53秒 | 日記

 先に引用した【天国との会話】、途中まで読んで投げ出してしまった。私は工学の実務屋だ、実証も論証もない机上の空論乃至妄想の類は全く信用しない。

 何故聖書だけを信用しているかと言えば

1.普通に生きて身に付く常識の範囲を逸脱していない、霊界の存在をうかがわせる記述はあるが(サウル王がサムエルの霊に問う事をした、との記録、但しそこに霊媒なる者が居たと言うことはそれが何かイカガワシイ存在の言葉を伝えたと思える)大体聖書は死者に問う事や占いを禁じている。その霊界と人間界を人が行ったり来たりする、輪廻転生と言うかな?、そんなことは書いてない。孔子が現実界の事しか語らなかったのと同じだ。

2.  聖書の記事は歴史の検証を得ている、得ているからこの書籍は今だに生き残っている。どのように歴史の検証を合格したかは自分で調べれば分かる。

で、この天国との会話なる書籍が私にとって意味がなかったか?と言えばそうではない。その前半に書いてあることは別の方面、別の人々からも聞いていることであり自分でも耳にした事柄だ。それらの奇妙さと聖書の記述がどうシンクロナイズするか考える動機は与えてくれた。そして死者が行く世界があること、それを幻視して天国だ、極楽浄土だ、と言う話、さらには輪廻転生なる妄想も出て来たと言う事が判った。

さらにはその死者が行くと言う世界が実は黙示録に言う新しい世そのものであろう、と言うことを理解した。黙示録は言う、その新しい世では墓はそこから人を吐き出す、海はそこから人を浮かび上がらせる。

母は約30年前に亡くなった。私の暦では、つまり現世の暦では母は聖書の言う通り、日の終わり、つまり神治の時代の到来まで眠っている。新世界が始まると黙示録言うように眠っていた人々は順次目を覚ます。『ああ、ここが聞いていた天国なんだ!』母はその時そう思うだろう。

しかし、彼女にとって【その時】とは『アレッ!さっきまで病気のせいで息が苦しかったのに、息子が傍らで別れの言葉を告げたのに、これどうなってるの?』だろう。