夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

日本の大掃除:順番にではなさそうだ、一挙にだ。

2017年06月20日 20時55分28秒 | 日記

1. 黙示録にこういう記述がある。

6:9 第五の封印を解き給ひたれば、曾て神の言のため、又その立てし證のために殺されし者の靈魂の祭壇の下に在るを見たり。 

6:10 彼ら大聲に呼はりて言ふ『聖にして眞なる主よ、何時まで審かずして地に住む者に我らの血の復讐をなし給はぬか』 

6:11 ここにおのおの白き衣を與へられ、かつ己等のごとく殺されんとする同じ僕たる者と兄弟との數の滿つるまで、なほ暫く安んじて待つべきを言ひ聞けられたり。 

2. 次はマタイ伝から

3:24 また他の譬を示して言ひたまふ『天國は良き種を畑にまく人のごとし。 

13:25 人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ。 

13:26 苗はえ出でて實りたるとき、毒麥もあらはる。 

13:27 僕ども來りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麥あるか」 

13:28 主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を拔き集むるを欲するか」 

13:29 主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。

 13:30 兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん。


この文章から推察されることは【分別に紛らわしい間は放置】して【毒麦と正常な麦】或は【稗と稲】の違いが明確になった時点で一挙に【毒麦】を刈り取って火に放り込む。

今日、日本社会の転覆を図る、皇室の排除を広言する、日本国なる枠組みを撤廃したい、等々の事を吹聴して憚らぬ者共や言わないまでも心ひそかに念慮或は企図するもの、期待する者共、色々居るだろう。

国家ぐるみ民族ぐるみでやっている者もある。或は日本の山林水源を買い占めてなしくずしに浸潤しようとする者共もあるようだ。

これらについて政府は何をぐずぐずしているのか?!と苛立つが、どうやら分類が進行しているのだろう。何故そう思うかと言うと、『エッ!こんな人物も日本再生にチャチャを入れるのか、生きてたのか?』と言う事例を見る。おそらくこうして全てのネズミが正体を明確にさせられつつあるのだろう。そして分類が完了した時、一挙に裁定が下るのではあるまいか。

考えても見よ、あなたがゴミ屋敷の再生を任されたらこのような手順でやるだろう・・

1)玄関を開ける。

2)内部を目視点検する。

3)袋を準備して不要物と必要物を選り分けて収納する。

4)一切の収納が終わったら、トラックを持って来て不要物をゴミ焼却場に運び、棄てる。

これに対比すれば

1)新時代の王、イエス・キリストが地球に来ている(見よ、彼は雲に乗って来る、つまり見えない状態で来ている)

2)アースレッドに相当する空気、問題、雰囲気、心理状態、政治状況、事態、事象を世界にみなぎらせる。それに覆われて苦し紛れにあちらの隅こちらの物陰からゴキブリ、ムカデ、ゲジゲジ、ナメクジ、ネズミ、蛇などが這い出てくる。

3)これで全部、と見定めたらそれらをまとめて袋に入れる。

4)焼却

小さい規模で問題が起こる度に処理、にはならないだろう。正常な感覚の人々の心痛が極限に達するまで跳梁跋扈する、言いがかりをつける者共の好き勝手にさせておくだろう。

マタイ伝から・・・

13:37 答へて言ひ給ふ『良き種を播く者は人の子なり、 

13:38 畑は世界なり、良き種は天國の子どもなり、毒麥は惡しき者の子どもなり、 

13:39 之を播きし仇は惡魔なり、收穫は世の終なり、刈る者は御使たちなり。 

13:40 されば毒麥の集められて火に焚かるる如く、世の終にも斯くあるべし。 
13:41 人の子その使たちを遣さん。彼ら御國の中より凡ての顛躓となる物と不法をなす者とを集めて、

13:42 火の爐に投げ入るべし、其處にて哀哭・切齒することあらん。 

傲慢不遜に己の身勝手な心理葛藤による思想信条を吹聴・・した段階で分別されている。 

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ラッキョウと悪口

2017年06月20日 16時16分42秒 | 日記

 新ラッキョウが出て来た。塩漬けして3日程で食べてしまう。それ以上置くと味がおちる。美味い!縦に刻んで酢味噌で食べる。これまた美味い!

寿司やラーメンで感激して涙ぐんでるそこの異人さん、ワッカランだろーなぁこの美味さ。炊き立ての飯に、酒に、ショーチューによくあう。ワインはだめだね。

ところで広島ではどうやらランキョウと言ってたな。ついでに言うと 『いってらっしゃい』は『いってかえんなさい』・・・当然じゃないかな?、『傘に入れて』は『傘に乗せて』、『触るな』は『いらうな』、『そうじゃないよ』は『そうじゃにゃあよ』、従姉妹がこれを喋っているのは可愛かった。その従妹たちももうオバサンになってしまった。ふとしたことで誤解を生じすっかりご無沙汰になって忸怩たる思いだ。

婚姻によってアカの他人であった人々が姻戚となる。だったらお互い胸襟を開いて親しく付き合い短いこの世の生で家族同様に親しくなる、非常に素晴らしい事ではないのか? それを根性の曲がった俺のクソババアは娘の夫、息子の嫁の、その家族の不平不服罵詈雑言、こうして本来親しくあったであろう子や孫たちが言われない誤解で疎遠になる。不徳である。

人の悪口を言うほど不徳はない。

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年寄り大嫌い

2017年06月20日 12時37分19秒 | 日記

 私は後期高齢者だ。だが、高齢者が大嫌いだ。醜い、クサイ、厚かましい。でもそれは何とか許せる。

一番嫌いなのは【歳を重ねた分、自分はエライ!】と密かに思っている点だ。なぜそれが判るんだ?と君は言うか?

教えてやろう。会社で高級管理職の一角を締めながら、『ジエータイはテッポ担いで遊んでる』と平気で言うモノが居る。

今度のセンキョじゃキョーサントーに入れた、と嘯く老人が居る。何故?と問うと『ジミントーにお灸をすえたんだ』と言う。『お灸をすえた』・・・ドーダ、この傲慢な言い方は!?俺はモノゴトガヨーク解ってるんだ!と無言のうちに言っていると思わないか。無用の【傲慢老人ども】!それがいい歳をしてオンナ遊びの話をとくとくとする。『飽きませんか?』と問うと『ハタケが変わればまた気分も変わる』だと、フン、白豚博多商人め。

子や孫、若い者達の将来の為には自分はどう物事を考え、どう行動しなければならないかを考えて日々の生活が慎重であらねばならぬはずが『オレタチはこんなにやって来た』と内心威張る、『子供達にもちっとはメーワクをかけなければ薬にならん』などと嘯く。呆れる!!

オイ、年寄り、何もあんただけが艱難辛苦して生きて来たわけではないんだ、若者もそれぞれの立場で奮闘してるんだよ、彼等の将来が少しでもよくなるように真剣になれ。

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優れたデザイン

2017年06月20日 12時19分51秒 | 日記

   船の構造物設計技術者だったが構造体のデザインに於いても事務作業に於いても、凡そ全ての分野で優劣は【美的な感性で決まる】と知った。帝大出の、記憶力と法令の抜け穴を見つけるに於いては超優秀な人が設計を出来ない、図面を描けない、やってもダサい!語るウンチクの割りには。
   美しいものは性能もいい、そしてそれは理論計算の結果として出て来るのではない、逆である。美しサは理論計算で追認されるものなのだ。しかし、これが判っている者は極めて少ない。一流の職人の、スポーツマンの動きの美!これは理論ではない、感性である。

   設計現場に居て最も苛立ったのが一流大学出の設計技術者の【鈍重さ】だった。【美】に対する感性がまるでない。しかしまあ、感性などと言うものは持って生まれたものだ。図らずして、習わずして説得力のある簡素にして明快な、或は鋭く的を射抜く文章を書く人々も居る。

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人生を振り返る

2017年06月20日 08時26分07秒 | 日記

 残念ながら女の子は持てなかった。一人ぐらい欲しかったが男子2人で終わった。まあ、何事も神の思し召し。

   二人の息子達の背中を遠くから見る立場になって必然的にだろうか、自分の来し方を振り返るようになった。そして、今まで何故だか判らなかった事の意味に気が付き始めた。

 中学の同窓、先生方が一様に言うのは昔と全然印象が違う人間になった、と言う事である。大学では『かわいいニホンザル』と評された。おそらく小中学校での印象もそうであったろう。今から、と言う時に会社が倒産同然で傘を無くした土砂降りの中での七転八倒の生活、抑えられていた鬱屈が噴出して『かわいいニホンザル』がヨタ猿になって生きた。

 もう時効だから言おう、子猫を三匹ばかり蹴り殺した。飼い猫を次々にイビリ追い出した。それをやったあとの悲しい心を家族は知らない。自分は何故こんな酷い事をするのだろうと思った。でも今は分る。両親が同居させてもらった外祖父母、それに両親、これらの人々は外見上はそれなりに私を大事にした。

 しかし、この『こじんまりと丸っこい、大人しい、かわいい日本猿』の【自我、意思】に関してはまるで拾って来た子猫同然の扱いだった。私は愛玩動物である一方でその範疇を出る気配を見せた途端に蹴飛ばされていた。

 会社の傘が無くなったと言う事態はこの愛玩動物がそのままでは世の荒波を乗り切れないとの現実を見せた。行き掛かり上、仕方なく私は尾羽打ち枯らした鳥、汚れたヤクザな猿として生きなければならなかった。母親は頑強に、私の首輪を握り続けた。父親はピーターパンで己の世界に遊んでいた。生涯一度も父は私を【男の立場】としてカバーすることも助言することも無かった。祖母は、ネチネチと遠回しに私の家系を貶した。

 私の心は燃え上がる憤怒の炎で騒いでいる。と同時に、捨て猫同然の扱いを受けていた悲しみが溢れている朝起きて、就寝まで、いや、就寝中も祖父母や両親に対する憤怒が燃え盛っている。それは肝臓を傷め、腎臓を傷め、やがて脳を傷めるだろう。

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