自分で思うに私は本来、臆病で女々しく怠惰な性格だ。ところが就いた生業はそれではとてもやって行けない造船設計技師だった。『一体こんな苦しい仕事から解放されることがあるんだろうか?いつになったら・・・』と、毎日考えていた。(大げさではない、この職業故に鬱になって退職した人も居れば自殺したいと言い続けて困惑させてくれた部下もあった)
その当時、熱心に【アセンション】関連の記事を読み漁った。フォトンベルト、コルマン・インデックス、マヤ暦、チャネリング等々、いろんな記事があったが要約してみれば『間もなく【自動的に】人類世界は極楽になる』と言うものだ。全人類が自動的にバージョン・アップする、とのことだ。
それは【一時的な慰め、読む麻薬】ではあったがうさん臭さが残った。理科系の性とでも言おうか、実証も論証も出来ないことに100%の信頼は置けない、と思っていた。特にチャネリングとか称する誰やらの、どこからか受けた霊感の記事なるものに疑惑の目を・・今でも向けている。要は『饅頭が食いたい、饅頭が欲しい、どうあっても食いたい、欲しい、・・・』と一心不乱に思い続けている者に見えない世界の低級霊とやらがイタズラをしているんだろう、と今でも思っている。だからその手の記事は参考までに読むが読み流す。本気で信じるなど狂気の沙汰だ。
では近未来について関心がないかと言えば非常に大いに大々的に渾身の関心がある。『【生存】について危惧しなくてよい世界に一日でいいから生きて見たい』からだ。結局人類世界の全ての災厄、苦しみ、不便、不如意は【生存の不安、不確かさ】に由来している。そしてその不安が取り除かれる日のある事、その日が近着くとどういう予兆があるかを人類に示しているのは聖書である。だから、私は日々のネット上報道、記事と聖書を較べて考えている。
聖書が断絶することなく未だにベストセラーで読まれている、事には何か意味がある。また特別な教育、団体に所属、修行などと言う条件なしに真っ当な常識を備えていれば読める点にも意義がある。考えてみたまえ、人が何人かいる子供達に将来の導きの為に何事かを書き残すとしたら【最も愚かな子】でも真っ当に生きて暮らしていれば読んで分るように書くのではないか?特別頭がよくなければ解読出来ない、とか、どこかのグループに所属しなければ分からない、或は何やら先生に教えて貰わなければ悟れない、苦しい修行とやらをしなければ悟れない、と言う冷淡な仕方では書かないだろう。
私の場合、長く拘った【ものみの塔】聖書冊子協会で得た知識で常識に適っていると思うものは参考にしている。カルトであると悟って脱退したが同協会で聖書の様々な記事に関して解釈を行っていた人は【大真面目に】やっていて、多分、カルトと相いれなかったのかもしれない、間もなく協会を追い出された。