夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

人間は何故煩悩具足であるのか

2016年04月05日 22時50分51秒 | 日記
 人間の人間たる由縁は予測し、計画し、実行し、管理し、検証学習する能力であるがそれは顕在意識の範疇にある。『産めよ増えよ地に満ちよ地を従わせよ』との創世の神の意図に沿ってその能力が与えられた・・・エデンに知恵の樹があったとはそういう意味である・・・。ここが他の一切の生き物と異なるところである。他の生き物にその能力は付与されていないので、つまりROMしかないので、元々書きこまれた情報に沿って生きる、つまり本能のままに生き、苦しみや痛みの概念もない、学習しないから、・・学習結果を記録するRAMはない。あるように見える彼らの行動は『反射、反応』である。

 実はその高度な、元々は地上世界の維持管理の為に付与されている能力が苦悩を描きだす。苦悩を予見するのだ。知恵の実を喰らうとはそういうことである。つまり煩悩四苦八苦は顕在意識が有ることに由来する。道元禅師の言う『ただひたすら座れ』とはこの顕在意識を超越して潜在無意識が発露するように己れを導く事だと思う。・・・ここまで解った上で碧巌録なり正法眼蔵随聞記、大道無門などを読めば結構面白いだろう。もしこの境地に達したら多分人は心理的にも現実的にも魔に遭遇しなくなるだろう。その時、人は神と一体化する。

 神道は一切論じないが、『世界は神霊に満ちている』との前提であらゆる事を行う。例えば神霊の働きに名前を付けて祀る。かまどの神、お手洗いの神、水の神、井戸の神、貧乏の神、あらゆるところに『神の働き』があるとの前提で生きる。従ってその中で育ち生活する人々は自然に神霊と一体化した状態にいる。ところが全ての事柄を顕在意識での文字や言葉にしなければ置かない『キリスト教神学』なる何の役にも立たない無益な学問に毒され神経症になった人々はこの状況を見て『多神教』だの『アニミズム』だのと言う、さても愚かな、勝手に延々と悩み苦しむがいい。

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