つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

奈良だより 66

2010-09-14 | 歴史
 奈良の前田さまから、牽牛子塚古墳の発掘調査報告がありました。以下はメールです。上の写真は、現地見学会案内標識。牽牛子塚古墳は有名で存じていたのですが、以前から朝顔とどういう関係があるのかと不審に思っていました。種と似ていることを初めて知りました。

 『明日香村にある「牽牛子(けんごし)塚古墳」の発掘調査によって、牽牛子塚古墳が7世紀後半に築造された八角形墳で有ることが判明し、日本書紀等の記述から斉明天皇とその娘、間人皇女の合葬陵であることが考古学的見地で確証レベルに達したと、多くの考古学者が述べています。
 今回の調査で、正八角形になる墳丘の裾と外周敷石の一部が見つかり、さらに石槨やその外側の構造も明らかになりました。石槨は南に開口する「刳り貫き式横口式」石槨で、東西5㍍南北3,5㍍高さ2,5㍍の推定約80トンの凝灰岩の巨石を中央に間仕切り壁を残し、東西二室に棺が並ぶように刳り抜かれ、床面には各々長さ1,9㍍幅80㎝高さ10㎝の棺台が設けられています。さらに今回の調査で石室の周囲を安山岩の柱状直方体(長辺2,7㍍短辺1,2㍍厚さ70㎝一本推定5トン)で取り囲んでいることが明らかになりました。石槨、柱状直方体、石敷きの石材、墳丘部の装飾用石材の推定総重量は540トンに達しますが、ほとんどは奈良・大阪府県境の二上山周辺から運ばれたようで、天皇家のような強い権力が無ければ困難でしょう。
 7世紀以前の大王古墳は前方後円墳か方墳がほとんどですが、八角墳は舒明天皇から文武天皇までの天皇陵の重要な条件とされていたようで、万葉集によく出てくる天皇の枕ことば「八隅知之(やすみしし)」を象徴しているのでしょう。
 「牽牛子」とは朝顔のタネのことで、間仕切り壁で仕切られた石室の姿を開口部から見れば朝顔のタネによく似ていることから名付けられたものと思われます。』

石英安山岩の直方体切り石                      石槨内部


石槨入口                              墳丘裾部の凝灰岩

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