つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

8歳で米国留学に旅立った津田梅子 1

2024-03-29 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.「父上ッ」

 明治15(1882)年11月20日、客船アラビック号がサンフランシスコから20日余りの航海を経て、横浜港に入ってきました。11月の太平洋は雨や雪の日が多く、来る日も来る日も黒雲の下を帆を張って進んできましたが、ここ横浜では冷たい風が吹きつけるものの空は青く澄んでいます。

 横浜港はまだ大きな船を横付けできる埠頭がなく、アラビック号は海岸から少し離れた場所に錨を降ろし、下船する人々は艀(はしけ)船に乗り換えて上陸します。22歳の山川捨松と18歳の津田梅はようやく順番が回ってきて、甲板から艀まで鉄製の梯子段をスカートの裾を気にしながら降りていきました。

 艀船が乗客で一杯になると、船頭が艪(ろ)を漕いでアラビック号から離れます。そこにもう一隻の艀船が陸から近づいてきました。その中に、見覚えのある、体格の良い中年の男がいました。男は船べりを掴んで、大声で呼びかけてきました。「梅ッ。梅だなッ」

 次の瞬間、梅は夢中で叫びました。「父上ッ」

 すっかり忘れていた日本語が、自分の口から飛び出したことに、我ながら驚きました。数え年わずか8歳で、この横浜港で父と別れてアメリカに留学し、11年の歳月を経てここに再会したのです。


■2.「おなごをアメリカに留学させたら」

「いっそのこと、おなごをアメリカに留学させたら、どうじゃ?」

 女子留学生派遣は、この北海道開拓使次官・黒田清隆の一言が発端となりました。開拓使ではすでに男子留学生の第一陣をアメリカに送り込んでいました。それを女子にまで拡大しようというのです。

 黒田は北海道開拓の指導者育成のために学校を作る計画を進めており、その教師役として招聘した地質学者トーマス・アンチセルが女子のための学校も設けては、と提案しました。開拓は夫婦揃ってなすべきであり、その影響でアメリカでは女性の地位が高い、とアンチセルは説きました。

 黒田はすぐに賛同し、さらに「いっそのこと」という冒頭の言葉が出てきたのです。黒田は一瞬、目を輝かせてましたが、すぐに表情を曇らせて、「じゃっどん、希望する者がおらんな。まして娘となると、親が手放さんじゃろう」

 そこに「うちの娘では、いけませんか」と声をうわずらせて言ったのが、黒田の通訳を務めていた津田仙でした。仙は英学塾を出て、幕府の外交方に務めており、アメリカにも行ったことがありました。そして、アメリカでの農家の豊かさや地位の高さに目を見張り、西洋技術を導入して、日本の農業を豊かにしたいという志を持っていました。

 維新後、西洋野菜を作り始め、そこから北海道開拓を志す黒田清隆に見いだされて、通詞をするようになったのでした。仙はやがてアスパラガスの缶詰販売などで成功し、その財をつぎ込んで、農学校を開きます。

 訪米の経験からも、ぜひ自分の娘を送り出したいというのは自然な気持ちだったでしょう。しかし、それは数え10歳の琴という娘でした。「幼すぎますか」と聞く仙に、「まあ悪くはなか。西洋の礼儀作法も身につけさせたか。じゃで幼い娘を送って、長く留学させたらよか」。男子の留学は4、5年だが、その倍はアメリカに居させたい、と言います。


■3.「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」

 仙は胸を高鳴らせて、家まで走って帰りました。しかし、琴は子供のいない兄夫婦に養子に出していました。その兄は大反対。琴にも話しかけて見ましたが、母親に後ろに隠れてしまって、「そんなところに行かないッ」と大声で泣き叫びます。

 その時、仙は背中に視線を感じて、振り返ると、琴の妹、梅と目が合いました。梅は無口ですが、読み書きも記憶力も琴をしのぐものがあります。
__________
梅、おまえは賢い。だから、わかるような。これは、おまえのためになることだ。おまえが行ってくれれば、父を助けることにもなる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 梅はかすかに頷きました。母親の初が慌てて「やめてくださいッ。こんな頑是(がんぜ)ない子に、わかるはずがないでしょうッ」 しかし、もう仙には兄の怒声も、女たちの金切り声も届きませんでした。

 後に、梅はこう語っています。
__________
 私は本当は、アメリカなんか行きたくなかった。遠い知らない国に行くのが怖かった。怖くてたまらなかった。それでも父上のためと思って、我慢して船に乗ったんです。向こうでだって、つらいことを山ほど我慢してきたんです。立派になって帰ったら、父上が喜んでくれると信じて──[植松、3,664]
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 横浜からの出発の際には、見物人からは聞こえよがしに、「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」という声も聞こえてきました。新聞記者たちは最年少の梅を取り囲んで、「言葉も通じない国に行くんだよ。それでもいいのかい」と意地悪く聞きます。梅は腹立ちを抑え、思い切って大きな声で答えました。
__________
 私の父上は英語が上手です。私もアメリカで一生懸命に学んで、大きくなったら父上のようになります。[植松、603]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 記者たちから「ほう」という感嘆の声が漏れました。仙が近づいてきて、梅の前でしゃがんで言いました。
__________
 梅、立派だった。おまえは立派に答えた。父は心から、おまえを誇らしく思うぞ。梅、元気で行って来い。泣かずに行くのだぞ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そういう父のまぶたには、涙がにじんでいました。


■4.5人の女子留学生

 梅は5人の米国女子留学生たちの一員でした。吉益亮子(かぞえ15歳)、上田悌子(同15歳)、山川捨松(同12歳)、永井繁子(同9歳)、津田梅子(同8歳)です。このうち年長の吉益亮子と上田悌子は健康を崩し、途中で帰国しています。10年以上もの留学を無事終えたのは、山川捨松以下の3人でした。

 山川捨松は東部きっての名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業しました。帰国後、参議陸軍卿・大山巌の妻となり、鹿鳴館で上流階級の婦人たちに西洋の作法を教えたり、日本で最初の慈善バザーを開いたりしました。日露戦争に際しては、アメリカの週刊誌に投稿して、寄付金を集めたりもしました。[JOG(745,747)]

 永井繁子は同じくヴァッサーカレッジの音楽科を捨松や梅より1年前に卒業し、後に海軍大将となる瓜生外吉(うりう そときち)と結婚。夫の協力を得て、女子高等師範学校教授として英語を、東京音楽学校教授として音楽を教える多忙な人生を送りました。

 そして、津田梅子は子のないランマン夫妻の家に下宿し、実の娘のように可愛がられ、私立女学校を卒業しました。帰国後は、上記の二人にも助けられながら、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設します。

 この三人の人生を見ても、大胆な日本最初の女子留学生派遣は日本の近代女子教育の確立に大きな功績を残したと言えるでしょう。

写真は今年のしだれ梅



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4 コメント

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okoさま (matsubara)
2024-03-31 08:13:57
アナザン・スターさまをご紹介頂きありがとうございます。

確かに朝ドラの「あさが来た」にそんな場面がありましたね。
調べていただきありがとうございます。
返信する
津田梅子 (oko)
2024-03-30 21:40:55
貴重なお話をありがとうございます。
コメントはアナザン・スターさまが立派にお書きくださっておりますので
便乗させて頂きます。
過去にテレビドラマで見たように思いましたので調べましたら
朝ドラの「あさが来た」に登場したそうです。
高校時代の英語の先生が津田塾出身の素敵な先生でしたことも思いだしました。
返信する
アナザン・スターさま (matsubara)
2024-03-30 07:55:15
いつも応援のメッセージをありがとうございます。

津田梅子については漠然としか知らなかったのですが、
8歳で渡米と言うことはその時代、大変なことだった
と、このWebを読み再認識しました。

日本人の凄さを感じました。

HIMARIさんのような天才少女がこの時代から
いたのですね。
返信する
偉人の条件? (アナザン・スター)
2024-03-29 12:02:24
津田梅子。
彼女の為した業績に、気迫を感じ、圧倒されました。
努力は元よりですが忍耐・堪え忍想いにも、身体の震えを覚えました。

如何なる困難があるかは、回りの心無い者よりも、親と本人にしか判らないとも。
年齢は無関係です。
幼いがゆえに、可能にしたのかもしれません。
不安よりも、父上の想いを適える娘の気持ちは天晴れです。

ありがとうございます。
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