昨夜は、奈良の前田さまから飛鳥寺西方遺跡の記事と写真が送られて来ました。奈良の情報はこちらの新聞には掲載されませんので、いつも有り難く拝見しています。以下はメール。
『飛鳥寺西方遺跡は、飛鳥寺の西側から飛鳥川まで広がる遺跡で、飛鳥川にそって北方向に、天智天皇の漏刻施設がある水落遺跡、更に北側に隣接して斉明天皇の頃の石神遺跡が存在し、過去の発掘調査によって、日本書紀による、蝦夷や隼人などの辺境の地に住む人たちを招いて饗宴を行う場となっていたようです。中でも今回の調査区域は、飛鳥寺の西門に続く区域で、乙巳の変(645年)の直前に中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会った法興寺槻樹下(ほうこうじつきのきのした)の広場とも言われています。
更に、壬申の乱(672年)では飛鳥古京の戦いの舞台にもなっています。今回の調査は、飛鳥寺西方遺跡の規模や構造を明らかにするこ とを目的にしたものですが、この区域の発掘調査はすでに10年間をかけて行われていますが、日本書紀にも書かれている槻樹(つきのき)が未だに発掘されていません。
写真①は現場説明会の会場です。
②は今回の発掘調査区域を三区に分けていますが、その一区の全景です。従前は飛鳥寺の西門から140mぐらいが限界と見られていましたが、今回の調査でさらに長く、飛鳥川の際まで延びていることが判りました。調査区の背景は甘樫丘(あまかしのおか)です。
③は一区の中の建物跡の遺構です。
④⑤は二区の調査区で、焼土を包含した土坑が出ています。
⑥は三区の調査区で西から東方向に撮影しています。手前は集石遺構で、後方は飛鳥寺です。
⑦は三区の南東から北西方向を撮影、白線は掘立柱の建物跡です。
⑧は入鹿の首塚と飛鳥寺です。寺の後方は2月4日に「おんだ祭」の行われた「飛鳥坐神社の森です。書紀に書かれている状況から、槻樹は入鹿の首塚辺りと推定されていますが、何時発掘されるか待ち遠しいロマンです。』


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