友人から興味ある内容の動画が送られて来ました。台湾には二度行きましたが、この動画にある明石元二郎氏の話はガイドも知らなかったようで、話してくれませんでした。台湾の為に粉骨砕身しインフラを整備し、近代化を図りました。これだけの人は今の日本にはいません。あの当時の日本人のもの凄さが分かります。この人の為に鳥居まで作られたのですから神扱いです。この人については司馬遼太郎も小説中に出て来るし、ドラマにもなっているようです。
八田ダムの八田氏のことはアニメにもなっているほどあちらでは知られているのに明石氏のことについては、知らなかったので調べて見ると、あまりにもスケールが大きすぎて書ききれません。印象に残ったところだけ記します。
『あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がおり、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。元二郎は、「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は、元二郎を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。しかし、元二郎は、ドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。元二郎は、フランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた。』
ネットより
日本の台湾統治で「前期武官総督時代」の最後を飾る第7代台湾総督として赴任した明石元二郎。日露戦争では秘密工作でロシア革命を支援して敵国の背後を揺さぶり、日本の勝利の陰の立役者として有名である。
明石元二郎は明石助九郎の次男として1864(元治元)年に福岡藩の大名町で生まれた。陸軍幼年学校を経て、1883(明治16)年陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任じられた。陸軍幼年学校時代の明石は、運動が苦手であったが数学と製図は得意であった。単独行動が多く、協調性が低かったとされ、いたずらをよくしたが、教師や先輩、友人などからは好意を持って見守られたという。このことは陸軍士官学校時代でも変わらず、語学の才能に秀いでたが、歯磨きをほとんどせず、整理整頓や身なりについては無頓着で一つのことに熱中しだすと周りのことを完全に忘れるという性格は終生変わらなかった。
1889年に陸軍大学校を卒業した後、ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年にフランス公使館付陸軍武官、翌年にはロシア帝国公使館付陸軍武官に転任した。ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語は完璧に理解していたという。この語学力を生かしてロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府運動家との接触を試みる工作活動を行っている。
1904年、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石は以後この地を本拠地として活動する。開戦直前の同年1月、明石は児玉源太郎参謀本部次長から「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2人ずつ配置」するよう指令電報を受け、さらに開戦と同時に参謀本部直属の欧州駐在参謀という臨時職に就いている。その上、ストックホルムに移った際にも児玉から「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報を受け取っている。
戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの戦争継続を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動を評して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満洲の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と言ってたたえた。戦争が終わった後、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、やがて熊本の第6師団長に転じている。
写真は岐阜護国神社で

長きおつきあい嬉しく存じます。
私は台湾は10年位前のことでした。
岸信介氏と会えてよかったですね。
招待旅行とは素晴らしかったですね。
故宮博物院は私も参りました。
台湾旅行では旅先で次男一家に遇えたのはよかったです。
三人の首相の記録は、帰省中の息子が見ていました。
それで広げたいと思いました。
どうして教科書に書かないでしょうね。
これが問題かと思います。
メディアも書きませんし。
台湾と中国の問題も難しいですね。
これからどうなるのでしょうか。
この度も貴重なお話に学ばせて頂きました。
ご夫妻さまどうぞ佳きお年をお迎えくださいませ。
台湾には半世紀も前の10月10日の雙十節にあわせて招待で台北に参りました。
有名な圓山大飯店に宿泊させて頂き、祝典に出席の岸信介氏と
偶然にお会いして友人たちと少しお話をさせて頂きました。
故宮博物院も見学、案内係が多くの収蔵品は困難を乗り越えて夜のうちに船で運びましたと。
歴史的なことからそれましたが、お祭りのためにお里帰りの国民で賑わい、
圓山大飯店の飾り付けが素晴らしく、多くのカメラマンンで賑っておりました。
今夜のNHK「三人の首相激動の記録」に岸氏を見ましたので、長々と失礼いたしました。
そんな人があの頃は活躍されていたとは。
台湾の人と、中国の人とはますます今は違っているように思われます。この語の運命は。気になります台湾です。
次男が赴任していたこともありまして。
日本人は優遇されていたように思います。
歓迎されましたし。
韓国とはあまりにも違う態度に驚きました。
一度だけは行かれることをおすすめします。
いつも枇杷の記事に学ばせていただきます。
よいお年をお迎えください。
台湾には、行ったことがありません。
ここからの学びに、知識が豊かになります。
歴史も、お国柄とは云うものの、事実に愕然となります。
拙ブログへの欠かさぬ訪問、感謝致します。
行く年を思え、来る年を迎えられること、どうぞ佳きことを祈りつつ。