つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

外交的敗北の日中友好50年

2022-10-17 | Weblog

伊勢雅臣氏のメルマガより

1.モンスター国家を育ててしまった「日中友好50年」

 本年9月29日は「日中国交正常化50周年」の記念日でした。50年前、1972(昭和47)年のこの日、田中角栄、周恩来両国首相が日中共同声明に署名しました。ちょうど半世紀の区切りの年で、一応、記念式典も開かれましたが、国民の間ではしらけムードが支配的でした。

 なにしろ、日中共同の世論調査では、日本で「中国に良くない印象、またはどちらかといえば良くない印象」を持つ人が90.9%、中国側でも66.1%の人が日本に対して、同様の印象を持っています[NHK]。この数字だけ見ても、「日中友好50年」の歴史は、大失敗だったことが分かります。

 国民感情だけではありません。尖閣海域での傍若無人な領海侵犯、台湾に対する武力威嚇、チベットやウイグルでの人権弾圧、世界の発展途上国を債務の罠に陥れている一帯一路、等々、中国は今や世界の平和と安定を脅かすモンスター国家に育ってしまいました。

 この「日中友好50年」の間に、3兆7千億円近くのODA(政府開発援助)を貢ぎ、また日本企業の対中投資残高は2020年時点で約19兆円にも上っています[Wedge]。我が国の政府・企業は身を削ってモンスター国家を育て、国際社会に大きな危険と損失を与えてしまいました。

 最近のベストセラー、門田隆将氏の『日中友好侵略史』では、「おわりに」で「国交正常化五十年を機に、その歴史を日本は振り返り、これを教訓とし、二度と同じ失敗をしてはならない」と述べています。今回は同書を頼りに、失敗の原因の一端を見ておきましょう。


■2.「国交正常化をできるのは、田中だ」

 かつて自民党内で「元帥」と畏怖されていた木村武雄という衆議院議員がいました。佐藤栄作首相にも直言できる大物議員でした。中国共産党中央委員で対日工作の責任者・廖承志(りょうしょうし)は早くから木村武雄と接触し、二人は何度も会って、日中国交回復について議論を交わしていました。

 やがて田中角栄が頭角を現すと、木村は田中を首相にして、日中国交正常化を進めようとします。木村の秘書を務めていた息子の木村完爾は、当時をこう回想しています。

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国交正常化をできるのは、田中だ、日中国交正常化を武器にすれば政権がとれる、それをしなければならない、と田中さんを説得していました。ライバル福田(赳夫)さんは台湾派のほうに連なっていますからね。私には〝俺が田中政権をつくる〟とよく話していましたよ。[門田、p111]
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 木村の後押しを得て、田中軍団は「中国」を前面に押し出して、自民党総裁選に突き進みました。「いま中国に舵を切らなければ、欧米に遅れをとってしまう」「かつての大戦で迷惑をかけた日本だからこそ、中国に目を向けなければならない」、、、。

 田中は「日中国交」を旗印にして、福田を破り、政権を取りました。しかし、それによって田中政権は「日中国交」で失敗も後戻りも許されない状況に、自らを追い込んでしまったのです。


■3.「なにか仕組まれているような気がした」

 田中政権の誕生が昭和47(1972)年7月6日、そして9月29日には北京を訪問し、共同声明で日中国交正常化が発表されました。

 一方、アメリカは電撃的なニクソン訪中を田中訪中の7ヶ月前に果たしたものの、正式な国交樹立は7年後の1979年でした。米国の7年に対し、田中政権は3ヶ月。国際的な外交常識から言っても、異常な「拙速」でした。

 北京の迎賓館に到着した田中角栄首相と大平正芳外相の一行十数人を、周恩来首相が出迎えて、一人ひとりと握手していきました。大平の秘書官・森田一は、その時の驚きをこう語っています。

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 中国側は秘書官の名前も全部、わかっていたんですよ。だって、周恩来さんは、僕に〝森田さん〟と言ったんです。事前に勉強しているんですよ。一人一人について全部わかっているような感じでしたね。途中で、この交渉を通じて、なにか仕組まれているような気がしたのは事実ですね。[門田、p221]
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 後に、門田氏は森田氏にこう聞いています。

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「中ソ対立が極限まで達し、北京や上海では、当時、ソ連の核攻撃に備えて避難訓練もおこなわれていました。また、文化大革命による破壊で、あらゆるものが機能不全になり、中国全土が〝荒野〟と化していたことはご存じでしたか」

 森田の答えは、こうである。
「いま分析すると、中ソ対決の情報が欠けていたと思いますね。それに文化大革命で中国が荒廃しつくしていることも知りませんでした。橋本中国課長がそういう情報を取っていなかったか、上げていなかったかということでしょう。[門田、p221]
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 ソ連との対立、文化大革命による荒廃と、日本を味方につけ、日本の力での経済再建を切実に必要としてのは中国でした。一方、日本は「欧米に遅れるな」という程度の動機しかありませんでした。これほど拙速に動く必要はなかったのです。

 この立ち位置を全く生かせなかったのは、外務省の橋本中国課長が中国側の状況の「情報を取っていなかったか、上げていなかったか」でした。取っていなかったとしたら信じられないほどの無能の極み、上げていなかったとしたら日本の国益よりも中国の国益を優先する「背信」です。

写真は中国産でなく、日本産、つまり友人から頂いた落花生


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