手軽で、安価に癌治療法は開発されていた!
当然のごとく、
潰され、抹消された・・・
潰したのは、癌マフィアだろう?!
その根源は、NWO人口削減戦略に繋がる!
市場支配と人口削減・・・いつもの一石二鳥・三鳥戦術だ?!
『癌は治る』と言うのは、禁句である。一部寛解(かんかい=病院の言葉)、一時寛解(かんかい)までは、許されるが、終局は死亡するのが現在の癌治療である。
そして、
その治療法は、切る・放射線・抗ガン剤である。その他は、保険適用でない。そして、最終的には死に至る。高度医療と称される治療法は、莫大な治療費が必要となる。その「経済効果」は、製薬・医療器・医業、そして、任意ガン保険に及ぶだろう。
最終的に死に至るとなれば、人口削減にも繋がる。
癌が、安価で手軽に治癒されてはならないのである。その意図が、明確に表れている。癌は年々増加し、その治療費は益々増大していく。そして、健康保険料を圧迫するが、貧乏人は速やかに治療によって殺されていく?! 中流の層は、莫大に搾取されるという図式が垣間見える。
繁栄するのは、超高額な抗ガン剤を製造する製薬会社と、高度医療の医療用具製造メーカーである。その片棒を担ぐ形の医業である。又、ガン保険である。
潰されて、隠された技術・メカニクスは、どこかでひっそりと使われているはずである。それも一握りの権力エリートの独占物として存在しているのだろう。ベンジャミンさんが、『癌の治療法は発見されている』との情報の信憑性が納得させられた形である。
少し長いが、非常に面白く、興味深い。多分、間違いない事実だろう。
この記事は、貴重なコメントを寄せて頂いた方の情報で、転載した。多謝!但し、元記事からの転載とさせて頂いた。
医療従事者でも、その名を知っている人は、少ないのではないでしょうか。 ロイヤル・レイモンド・ライフ博士。これほど、医療において革命的な発明・発見をした人物はいないと言っても過言ではありません。ライフ博士の偉業を、誰にでもわかるように簡潔に言ってしまえば、 人々を苦しめる、あらゆる種類の病気を、完全に治療する方法を、約 80 年も前に見つけた人物です。 果たしてそんなことが可能でしょうか。とても信じられませんね。残念なことに、病気で死んでいく人は後を絶ちません。
ライフ博士の魅力的な治療が本物であるならば、先進治療として、スタンダードになって いいはずです。誰もが抱く疑問の答えは、医療の正史には決して出てこない、抹殺された天才の壮絶な人生が物語っています。隠され続けた発明と、ライフ博士 の生涯を振り返ってみることにしましょう。
ロイヤル・レイモンド・ライフは、機械系の技術者であった父ロイヤル・レイモンド・シ ニアと母アイダ・メイ・チェイニ-の次男として、 1888 年 5 月 16 日に米・ネブラスカ州で生まれました。母は、ライフが生まれて 8 ヶ月後に病気で他界しました。その後は、叔母のナイナが、 17 歳までのライフ少年を自分の子どものように育てました。
幼いころから様々なことに興味を持ち、多才で聡明だったライフは、医者になることを決 意し、ジョンズ・ホプキンス大学に進学し、医学を勉強し始めました。次に細菌学に興味を持ったライフは、ハイデルブルグ大学で多くの菌類標本の写真の撮影 に成功しました。その分野での多大な功績をたたえ、後の 1914 年には、同大学から寄生虫学の名誉博士号を授与されています。また、微生物の観察に関し、当時の顕微鏡の倍率の限界に不満を感じたライフ博士は、随一の技 術を有する光学レンズ会社・ツァイス社で働き、光学レンズについての知識を深めました。
その後、ライフ博士は、病理学における微生物の生態研究を深めるためにカリフォルニア に移ります。そこで、知りあった東洋系アメリカ人女性メイニー・クインと知り合い恋に落ちます。当時の強い人種差別の風潮の中でも、ライフ博士は、彼女に 対する思いを変えることはありませんでした。その想いを詩にして手紙に書き、二人は結ばれます。 1912 年に結婚し、子宝には恵まれませんでしたが、メイニーはライフ博士のよき伴侶であり続け、その結びつきは 1957 年にメイニーが亡くなるまで続きました。
ライフ博士は、専門分野をいくつも独学で身につけており、それまでの科学の枠にとらわ れない答えを直感で探し当てることができる科学者でした。つまり、ひとりで各分野の科学者や技術者が集まったチームのように、知識や技術を自由に操ること ができたのです。ゆえに、新たな目的のために新しい技術が必用とされるときに、ライフ博士はすべて自分で機械を発案し、設計していました。ライフ博士の 数々の発明品の中には、ヘテロダイン・紫外線顕微鏡やミクロ解像管、極微操作装置などがあり、広範囲にわたる知識を有していたことがわかります。
ロイヤル・レイモンド・ライフ博士
(1888-1971)
ライフ夫妻
1910 年代当時、がんやその他の病気の原因である病原菌の真の正体をとらえようと研究していたライフ博士は、当時の顕微鏡の性能に限界を感じていました。当時の 顕微鏡の倍率の限界であった 2500 倍では、実際に病気を引き起こしているウイルスを見ることはできないと、自らの手でより優れた性能の顕微鏡の開発に乗り出します。
そして、 1920 年までにライフ博士は、ウイルスを見ることができる世界初の顕微鏡を完成させました。また、 1933 年には、約 6000 個の部品で作り上げた驚くほど複雑な装置である「ユニバーサル・マイクロスコープ」を完成させました。
これは、 60000 倍もの倍率を誇る顕微鏡です。 この驚異的な顕微鏡によって、 ライフ博士は生きたままウイルスを観察した世界初の人間となったのです。 60000 倍という拡大率は、今日の技術水準からしても、驚異的な数字といえます。
ちなみに、現代の電子顕微鏡を使用すると、その観察下で即座に全ての微生物は死んでし まいます。そのミイラ化した残骸か死骸が観察できるだけなのです。一方、ライフ博士の顕微鏡のもとでは、生きているウイルスが目まぐるしく動き回り、環境 の変化によって形を変えたり、発がん性物質と反応して素早く複製したり、また正常な細胞をがん化させていく様子を観察することもできたのです。
極小の微生物を生きた状態で 観察できるのは、診断と治療という目的のためには、非常に重要なことでした。
ライフ博士が設計したユニバーサルマイクロスコープ。1933年に製造されたこの3号機は、ウイルスを生きたまま観察できる機能を持っているものです。
ライフ博士は抜群の拡大率を持つ顕微鏡を作るだけでは、無色のウイルスを見るには不十分であることに気付きました。既存のアニリン染料で無色のウイルスを着色することはうまくできなかったのです。ウイルスは染料のコロイド粒子を吸収するには小さすぎたのでした。
そこで、 ライフ博士は、まずスリット分光器を使って、辛抱強く様々な病原菌、細菌のひとつひとつの分光学的特徴を特定しました。その後、石英ブロックのプリズムを ゆっくりと回転させ、研究対象の微生物に特定の波長の光を当てます。この特定の波長は、現在では立証されている「すべての分子は固有の周波数で振動してい る」という事実に基づいて、分光学的特徴である固有の周波数と共鳴するものを選択したのです。
すべての分子を形作る原子は、エネルギーの共有結合をした分子構造の中で、その分子固 有の電磁波周波数 を出したり、吸収したりしています。そして、同じ電磁波振動やエネルギー特性を持つ分子は二つとしてありません。ちょうど海で二つの波が重なると激しさが 増すのと同じように、ある分子とその分子固有の周波数と同じ波長の光が重なると共振現象によって光が増幅され、強まるのです。
共振する特定の色の波長の光を微生物に当ててやると、それまで通常の白い光のもとでは 見えなかったその微生物が 、その色の光に共振してあざやかにその姿を現します。ライフ博士はこのようにして、通常の光では見ることのできない微生物を見て、それが活発に細胞組織を 侵食していく様子を観察できたのです。
このユニバーサル・マイ クロスコープを使ってライフ博士が見ることのできた微生物のうち 75 %は、紫外線を使ってのみ観察できるものでした。そして、紫外線は可視光線の波長の範囲外の光なので人間の肉眼でみることができません。そこで、ライフ博 士は初期のラジオ放送ではよく用いられていたヘテロダイン(周波数を変換する技術)を使い、この問題を解決しました。
それはどのようにするかというと、まずそ の微生物に共振する紫外線の波長のうち、二種類の異なる波長の光を当てます。紫外線であるこれらの光は、重なり合うとお互いの波長を妨害しあい、それぞれ の振動数を弱めます。このように二つの光の波が干渉しあい、お互いの波を弱め合い、打ち消しあうことによって、より長い波長の光が新しく生まれます。これ は、可視光線の範囲の波長の光であるため、肉眼で見ることができるのです。このようにして、ライフ博士は、現代の電子顕微鏡でもまねのできないウイルスを 生きたまま観察する技術を完成させたのです。
1929 年11月3日付のサンディエゴ・ユニオン紙。トップ見出しで「地元の科学者が病原菌の驚きの世界を解明」として、ライフ博士と博士が映像に収めた菌類の顕 微鏡写真を数点を掲載しています。 上部の連続写真は、ストロンギロイデス属の鉤虫が活動する様子をフィルムに収めたもので、その左下写真は破傷風菌(胞子の状態)を217,000倍に拡大 した世界記録の映像であると注釈があります。
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特筆すべきことに 、ライフ博士は、 なんと 1920 年にはヒトにがんを作るウイルスをすでに発見していました。 正 常な細胞をがん化させる研究を 2 万回以上試みたのです。さらにこの微生物の培養液から 400 種類もの腫瘍を作りだすことにも成功しました。そして、これらの過程をすべてフィルムや写真に収め、その詳細にいたるまで記録に残し、このがんウイルスを 「クリプトサイズ・プリモーディアルズ」と命名したのです。
ライフ博士は、 1930 年代当時の科学者には信じられないほどに進んだ境地に達していたため、理解できる人がいませんでした。そのため、多くの科学者は、米・サンディエゴにある博士の研究所を実際に訪れて、自分の目でその事実を確認したのです。
バージニア・リビングストン博士は、ニュージャージ 州からライフ博士の研究所のあるサンディエゴに引っ越して、頻繁にライフ博士の研究所を訪れました。彼女は、がんを引き起こす様々な細菌を特定した研究書 を 1948 年から出版し始め、今ではその功績が讃えられる有名な科学者です。彼女は、後に研究書の中で、がんウイルスを“プロジェニター・クリプトサイズ”と新しく 名付けています。しかし、ライフ博士の名前は、彼女の研究書の中には、一切記されていません。実際、このようにライフ博士の研究による大発見のほとんど が、ライフ博士の功績としては認められていないのです。
バージニア・リビングストン博士
彼女の功績は、がんを引き起こすウイルスを特定し、発見したことで医学界で認められていますが、ライフ博士と交流していた事実は医学史において認められていません。
また、当時ライフ博士の顕微鏡でウイルスが様々に形を変化する様子を目撃した科学 者とそれを見たことのない科学者との間では、激しい論争が起きていました。当時、影響力のあったトーマス・リバーズ博士などは、何の調査をすることもな く、ウイルスの形態変化を否定します。リバーズ博士の顕微鏡では、これらのウイルスの形態変化は観察できなかったため、彼は、「このウイルスの形態変化説 というものには論理的根拠がない」と論破したのです。
現代においても正統派の科学者たちは 、代替医療に関して、まったく同様の観点から評価して結論付けています。前例がないのなら、すべて否定するのです。 1930 年代の空の旅は、危険をともなう大変なことであったので、彼らのほとんどは、ライフ博士の研究所があるサンディエゴまでわざわざ足を運んで自分の眼で確認 することなどしませんでした。それゆえに、 ウイルスのライフサイクル(生涯過程)は、実際にそれを観察したこともない人たちの手によって結論づけられ、科学的事実として確立されてしまったのです。
多くの科学者や医者たちも、暗視野顕微鏡を用いたライフ博士のがんウイルス発見と 、がんウイルスの多様に変化する性質の発見については、その功績を認めるところです。また、ライフ博士は、当時の最先端をいく科学者たちとも仕事をしてい ました。
名前を挙げると、大手の非営利医療機関であるメイヨー・クリニック所長を長年務めた E.C.ローズナウ博士、ノースウェスタン・メディカル・スクール理事長アーサー・ケンダル博士、世界的に有名なジョージ・ドック博士、高名な病理学者で あるアルビン・フード博士、南カリフォルニア大学学長のルーファス・クレイン・シュミット博士、パラダイスバレー療養所・監督責任者R.T.ヘイマー博 士、米国医師会・南カリフォルニア支部長ミルバンク・ジョンソン博士など、その他にも大勢います。
そのような論争の中でライフ博士は、一切その騒ぎにかかわることなく、ただこの小さな殺人者・ウイルスを破壊する方法をより洗練されたものに仕上げていく 研究に没頭し ました。ライフ博士は、その姿を視覚化させるのに用いた技術と同じ共振・共鳴の原理を用いてウイルスを破壊することに応用したのです。
アーサー・ケンダル博士
彼は、微生物が生きたままその中で観察できる培養液( K-medium) を開発し、ライフ博士の研究に協力しました。
ミルバンク・ジョンソン博士
1929年のサンディエゴ・ユニオン紙を見て驚いた友人のアーサー・ケンダル博士から依頼されライフ博士の研究所を訪問、その後、ライフ博士の治療器をがん治療に用いる研究を共にしました。
1931年11月20日にミルバンク・ジョンソン博士が、ライフ博士とアーサー・ケンダル博士の功績を讃えるために催した晩餐会。当時のアメリカのトップ の医学博士44名が、「ウイルスを培養し、生きたまま観察できることに成功した」二人を讃えるために集まりました。一番奥に立っている白いスーツの人が、 ジョンソン博士、右がケンダル博士、左がライフ博士。
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1938年5月6日付のイブニング・トリビューン紙。大見出しで「サンディエゴ在住の科学者、恐怖の病原菌は光で破壊できると宣言」とあり、小見出しには 「医学界への福音」とあります。またその右には、「ライフ博士、18年間の苦労の末のがん退治」とあります。
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ライフ博士は、 すべての物質と同様に、目には見えないレベルでウイルスもそれ独自の振動数で、振動していることに着目しました。そして、そのウイルスと共振する周波数の光を照射して、ウイルスをさらに振動させました。 微生物がその構造的な形を維持するのに耐えきれなくなるまで照射レベルをさらに上げてやると、ウイルスの形は歪み、崩壊してしまうのです。 ライフ博士は、この周波数を「致死反応振動数(MOR)」とよびました。そして、 この「致死反応振動数(MOR)」の光は、ウイルス以外の周りの正常な細胞には、いっさい害を与えないのです。
また、 電気を使用した治療法なので、実質的にわずかな電気代しかか からないため、治療費もたいへん安いものでした。脱毛などの副作用に苦しんだりすることもなく、患者は、すみやかに治療されて、無事に家族の元にもどれる のです。抗がん剤を用いた化学療法や放射線療法や外科手術のように命を危険にさらす必要もありません。
この治療法の仕組みは、ワイングラスをある特定の音波で、破壊できることに似ていま す。目には見えませんが、ワイングラスの分子は、すでにいつも特有の音(その音波のいくつかの高調波と同じ振動数)で振動しています。その音と共鳴してい るのです。全てのものは、その物質個有の振動数で振動しているので、その音波で破壊されるのは、そのワイングラスだけです。まさにありとあらゆる全てもの は、他とは異なるそれ固有の共鳴振動数を有しており、それこそありとあらゆる周波数が存在しているのです。
この技術を完成させるのにライフ博士は、ヘルペスや小児麻痺、脊髄膜炎、破傷風、インフルエンザなどを含む数多くの危険なウイルスなどの病原菌を破壊する特定の周波数を発見するために一度に丸二日( 48 時間)通しで働くという生活を長年行っていました。
1929 年、「ライフ博士が開発した顕微鏡でウイルスの生態の観察に成功した」という新聞記事が出ると、アーサー・ケンダル博士が友人のミルバンク・ジョンソン博 士にライフ研究所を訪問して、本当か確認してくるよう依頼しました。依頼の通り研究所を訪問した、ミルバンク・ジョンソン博士は、ライフ博士の先進的な研 究に興味を持ち、協力者となりました。また、アーサー・ケンダル博士も、ウイルスを培養して、生きたまま観察できる培養液(K- medium) を開発し、ライフ博士と共同研究をはじめました。
そして、 1931 年 11 月 20 日には、ミルバンク・ジョンソン博士による晩餐会が催され、米国内で最も尊敬される医学界の権威である 44 人が、ライフ博士とアーサー・ケンダル博士の共同研究の功績を祝いました。
1934 年、南カリフォルニア大学は、特別医療研究委員会を設立して、ミルバンク・ジョンソン博士のパサデナ郡立病院の末期がん患者を対象にライフ博士の研究所でがん治療実験を実施しました。その研究チームには医者や病理学者が加わり、患者の診察を行いました。 3 カ月の診療の後、委員会は 86.5 %の末期がん患者が完全に治癒したと報告したのです。さらに治療は継続され、残りの 13.5 %の患者も 4 週間後にはこの治療によって完治してしまいました。ライフ博士の技術による治癒率は何と 100 <