草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」後3

2020-04-18 20:14:18 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後3 

大奥のお局さま③若様は風呂嫌い3

「やったー」
思いもかけない出来事に言葉を失ってしまったお局の後ろから、子どもの声が響いた。
「若君、お目覚めでしたか」
 どうしたことだろう。いつもは寝起きが悪く、半時はグズグズと泣いている若君が、泣きもせずに立っている。よく見れば若君の足元にはさっきの猫が尻尾を立てて、体をこすりつけている。

「この猫はそなたの猫か」
 薪が飛んで来たほうから一人のお端下(はした)が飛び出してきた。やっと事態が把握できたお局さまが尋ねたときには、お端下はすでに頭を地面に擦りつけていた。目の前に御わすのが、大奥総取締役の秋月の局さまと若君とだと分かったのだろう。

 お端下はますます頭を深くさげて地面に敷かれた玉石の中に顔が埋まってしまうくらいになっていた。いくら猫を追い払うためだからといってもお局さまの目の前に薪を投げつけてしまったのだから、お叱りどころか無礼打ちにされても致し方の無いことだ。このままやり過ごすつもりなのだろうか、それともとっくに覚悟を決めているのだろうか。

 ところがいつまでたってもお局様の「無礼者」の声がしなかった。お局様は寝起きでまだ頭がはっきりしていないのだろうか……。いやそうでなくいつも寝起きの悪い若君が、すんなり起きていることのほうに驚いていたのだ。

「この猫は、そのほうの猫か」
お局様は震えているお端下に声を掛けた。
「はい、わたしが拾った猫でございましたが、今は米蔵で鼠の番をしております」
お叱りを受けるものとばかり思っていたお端下は一瞬戸惑ったが、それでも気を取り直して答えた。

「米蔵の鼠の番と申すのか」
 このところ城内で鼠が異常に繁殖しているとの報告は受けていた。特に米蔵の被害は甚大で、御用商人の鈴乃屋が選りすぐりの猫を放ったと聞いた。おかげで米蔵の鼠は一月もしないうちにいなくなってしまったが、今度は大奥のあちらこちらで鼠の糞を見かけるようになった。なんのことはない米蔵の鼠が大奥に逃げて来ただけのことだった。

 鼠は夜中に天井を走りまわるだけではなく、昼間でも姿を現すようになった。御膳所の仲居は朝からキャーキャー悲鳴をあげ、御火番係は見回りの最中に鼠の尻尾を踏んでしまった。その拍子に驚いて手に持っていたろうそくを落としてしまい、もう少しで火事を出すところだった。

「このままでは大奥の威信にかかわると」お局様が直談判をして、つい先日お蔵方の猫を回してもらったばかりだった。むろん大奥にも猫はいないことは無いのだが。大奥の猫ときたら贅沢な物ばかりを食べさせているので、鼠などには見向きもしない。そればかりか鼠に鼻先をかじられる猫まで出る始末だった。
 
 ところがお蔵方がしぶしぶ貸し出した猫が来てからと言うもの、嘘のように騒動が収まってしまった。

「今度お蔵方にお納めいたしました猫の中には、飼い主の奉公先に押し入った盗賊一味を退治した猫もおります」
 鈴乃屋が自慢していたのを思い出した。そういえば飼い主の娘も鈴乃屋の口利きで大奥に上がったと聞いた。体が大きく、たいそう力が強いと言っていた。このお端下のことであろうか。

「鈴乃屋が申しておった盗賊を退治した猫とは、この猫のことか。それにしてはずいぶんと小さいのう」
 猫はお局様の足元によってくると、お局様の草履の鼻緒に、耳の付け根を擦りつけている。なんとも愛らしい猫の仕草を見て、若君が大喜びしている。こんな若君の顔を見るのは久しぶりだった。

「聞けば、盗賊に中には上州の赤鬼と申すたいそう凶悪なやからもおったいうが、その赤鬼もこの猫が退治したのか」
「いえあれはこぼれた油で滑って、自分が手に握っていた匕首で腹を突いただけでございます」
「なに、この猫が鬼退治をしたのか」
若君が目を丸くして娘に聞き返した。

 若君にいたっては落ち着きが無いといってしまえばそれまでなのだが、人の話をまともに聞いたことが無い。常にバタバタとそこいら中を走りまわり、おとなしくしているのは寝ているときだけだった。

「のう秋月、若は大丈夫なのか」
時として上様はお局様に尋ねることがあった。
「何をおっしゃいます上様。若君は話に興味が無いだけでございます。女中たち頭のてっぺんから出ているようなキンキン声は私(わたくし)とて頭が痛くなってしまいます」
実際若い部屋子たちの声は、お局様にはよく聞き取れないところがあった。

「若君、湯殿の準備が整いました」
いつも落ち着きの無い若君であったが、ただ一つ紙を丸めたり開いたりするのはどうした訳か好きだった。ガサガサと音を立て何度も紙を開いては丸め、丸めては開いて最後はビリビリと破くのだった。今も紙を破いている最中だった。
「嫌じゃ、湯殿などいかぬ」
君は真っ直ぐにお局様を見据えるとそう答え、また紙を破り始めた。
「ほらごらんなさいませ、ちゃんとお答えあそばしたではございませんか」
お局さまは自信を持って上さまに答えた。

「まあ、若君が」
そんな若君がお端下の話を聞いていたとは。じゃれ付いている猫がよほどお気に召したのだろうか、それとも娘の声が聞きやすいのだろうか。少し低めの娘の声は、この頃特に耳鳴りのひどくなったお局さまの耳に心地の良い響きだった。ただよっぽど緊張しているのであろう、前についた両手がブルブルと震えている。
 
 それにしてもずいぶんと大きな手をしているものだ。部屋子たちの小さなか細い手を見つけたお局さまには、目の前の娘の手は特別大きく見えた。鈴乃屋はずいぶんと力の強い娘だといっておったが、なるほど力の強そうな手をしている。

 お端下は大奥の中では一番身分が低い。水汲みや風呂たき、何につけても力を使う仕事だ。しかし目の前の娘ならば、どんな力仕事も楽々とこなしてしまいそうだ。

「薪を持っていたが、そなた何をしておったのじゃ」
「はい、湯殿の湯を沸かしておりました」
「なに、湯殿じゃと」
お局様に妙案が浮かんだようだ。

 その日若君はたいそう機嫌がよく、湯から上るとすぐにお局様の部屋を訪れた。
「お婆(ばば)、むかし奥羽の国にたいそう不精な爺と婆がいたそうじゃ」
湯上りの肌はサラサラとして心地よく、まだうっすらと湿っている洗い髪からは、幼子の乳臭い甘い香りが漂ってきた。

「爺と婆が湯につかると垢がたいそう出て来たそうじゃ。そこでその垢を集めて人形をこしらえて、垢太郎っていう名前をつけたそうじゃ」

 湯殿のお端下は、熱いお湯に肩まで浸かれなどと言う代わりに、垢で出来た垢太郎の話をしたそうだ。垢太郎がたいそう力持ちに成長して、魔物を退治する話だった。大奥という女の園で暮らしてはいるが、若君もやはり男子である。とりわけ腕白盛の年頃の子どもには、この手の悪者退治の話は血が踊るのだろう。

 その日から若君は入浴の時間を心待ちにするようになった。そして湯上りには必ずお局様の部屋を訪ねて、その日聞いた話をお局さまに話して聞かせるのが日課となった。

草むしり作「わらじ猫」後2

2020-04-17 18:52:33 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」後2 

大奥のお局さま②若君は風呂嫌い2

 外はうっすらと明るくなっていた。水汲みでもしているのだろうか。桶を重そうに持った、お端下(はした)の姿が木々の間からチラチラと見え隠れしている。

 二月も半ばに入ったとはいえ、朝の空気はまだまだ冷たく、身震いをするほどだった。それでも饐えたような臭いがする部屋の中にいるよりは気持ちがいい。大きく息を吸い込んむと冷たい空気が体中を駆け巡り、思わず身震いしたが、すがすがしい気持ちになった。

―おや、もう花が咲いている。 
 何気なく目をやった梅の木の蕾が大きく膨らみ、ちらほらと花を咲かし芳しい香りを漂わせている。このところ若君のことで頭が一杯で気づきもしなかったが、いつの間にか春が来ていた。

―今年も無事に花を咲かしているだろうか。
 お局様さまは池の端の梅の木に目をやった。この古い梅の木は上様がお生まれになったときから、すでにこの大きさだったような気がする。幼い頃の上様は寝起きが悪く、目が覚めるとしばらくはぐずぐずと泣いていたものだった。そんな幼い上様を抱いては、この木の下でよくあやしたものだった。
 
 ねじれあがった根元の幹はすでに朽ち果て樹皮のみを残している。そのわずかに残った樹皮から養分を吸い上げ、花を咲かせ実を付ける。毎年実った梅の実はお局さま手ずから塩漬けにし、三日三晩土用干しにした後上様の朝食に添えられる。

―あんなところに猫がいる
 池の水面に張り出した梅の枝先が不自然に揺れている。何だろうと思って庭に出たお局さまは、枝の先に一匹の猫が登っているのに気がついた。中が朽ちて洞(うろ)になってしまった幹は、枝をささえきれずに大きく水面にかしいでいる。倒れないように添え木が当てられ、なんとか枝が折れずに済んでいるのだが。猫はやっと持ちこたえている枝の上に止まっている。

―このままでは枝が折れてしまう。
 そう思った時だった、猫はお局さまに気づいたのだろうか。枝から池の中に置かれた飛び石の上に狙いを定めて飛び降りた。そしてそのままピョンピョンと飛び石を渡ってお局さまのほうに一目散に走って来た。まるで助けを求めるような走り方で、あっというまお局様の後ろに走り去った。

「………」
猫は一匹ではなかった。逃げていった猫を追いかけるように、梅の木の根元から二匹の猫が飛び出してきた。先に逃げた猫に比べるとずいぶんと体が大きい。二匹は尻尾を膨らませ体を弓なりにしてそろりそろりと近づいてくる。大きく見開いた目がこちらを見据えている。 

 お局さまの背後でも猫の唸り声が聞こえてきた。さっきの猫であろう。それに負けずと二匹の猫の唸り声も凄みを帯びてきた。

 ひときわ大きく唸り声がしたときだった。空を切るような音とともに薪が飛んできた。薪は狙いを定めたように猫の鼻先をかすめ、地面に乾いた音を立てて落ちた。とたんに二匹の猫は驚いて逃げ出していった。

草むしり作「わらじ猫」後1

2020-04-16 20:21:24 | 草むしり作「わらじ猫」
「風と共に去りぬ」あらすじ只今準備中。しばらく草むしり作「わらじ猫」後編をお楽しみください。

草むしり作「わらじ猫」後1 

大奥のお局さま① 若君は風呂嫌い1

「…………」
 猫が鳴いたような気がして、お局さまは目を覚ました。辺りはまだ薄暗らい。お付きの部屋子たちが起きてくるには、まだ早いようだ。それでも御端下(おはした)女中たちはとっくに起き出しているようだ、忙しげな足音が遠くから聞こえてくる。
 
 いつもなら目が覚めるとすぐに起き上がるのだが、今朝はまだ布団の中にいた。この歳になると夜中に一度目を覚ましてしまうと、なかなか眠れなくなってしまうものだ。何度も寝返りをうって、御火番係の拍子木の音が遠くに聞こえたころ、やっと次の眠りに付いたばかりだった。

―今度の乳母もまた駄目なのであろうか。
 大奥総取締役秋月の局さまは深いため息を吐くと、ぐっすりと眠っている若様の顔を眺めた。
 
 若君が泣きながら部屋に来たのは、お局さまが寝付いてすぐのことだった。若君のお母上が流行病で急逝してから、早いもので半年になる。最初の乳母は三日、二番目の乳母も一月と続かなかった。若君がどうしても乳母に懐かないのだ。それどころか乳母の顔を見ただけでお局さまの後ろに隠れてしまうというありさまだった。
 
 しばらくはお局様が乳母の代わりをしていたのだが、父である上様の乳母だった身には、五歳の腕白盛りの若様のお相手は体がついていかなかった。若様が投げた鞠を拾おうとして中腰になったのがいけなかった。腰にぎっくりとした痛みが走り、そのまま動けなくなってしまったのだった。
 
 幸い十日もすれば動けるようになったのだが、このままではお局様の体が持つまいと、上様じきじきにご沙汰が下り、三人目の乳母をつけたばかりだった。今度の乳母は何処となく面差しが亡くなった母上様に似ているからだろうか、若君の方もすんなりと乳母に懐たようで、お局様も一安心していたのだが。

 困ったことだと思う反面、若君が自分を慕ってくるのには悪い気がしなかった。安心しきったような若様の寝顔を見ながら「立派なお世継ぎにお育てしなければ」とお育てした上様の時とは、また違った可愛さを感じていた。

―それにしてもいつ湯につかったのだろうか。
 寝入りばなを起こされてなかなか寝付けなかったのは、歳のせいばかりとはいえなかった。夜中に泣きながら布団の中に潜りこんできた若君から漂ってくる、つんと饐(す)えったような臭いが鼻について、なかなか寝付けなかったのだ。試しに手を伸ばして顔をさわってみると、なんだかネバネバとしている。お局様はまたしても大きなため息を吐いた。
 
 実のところ若君の風呂嫌いには手を焼いているの。風呂に入らぬならせめて体でも拭かせればいいのだが、それさえも嫌がる。下手に下着なども新しくしようものなら、とたんに癇癪を起こし手が付けられなくなる。前の二人の乳母この風呂嫌いが災いして辞めたようなものだった。

「このままでは若様でなく垢様になっておしまいですよ」
 若君には何度となくそう言って聞かせるのだが、一向に効き目がない。

―何かよい手立ては無いものだろうか。
 あれこれと考えをめぐらせているのだがどうも若君の臭いが鼻につく。お局様はこっそりと鼻に手を当て、庭に面した障子を開け放った。

草むしり作「わらじ猫」中1

2020-03-03 12:00:52 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」中1
 ㈢大久保屋の大奥様①
 弥助編1
 夕暮と同時に急に冷え込んできたせいだろうか、仕入れたそばは面白いようにはけてしまった。明日からもう少し仕入れを増やしてみようかと思いながら、弥助は懐の銭を握りしめた。
 
 けっきょく自分もあの猫に救われたのだろうか、弥助が夜鳴き蕎麦屋の親父に弟子入りしてから一年が経った。あの時猫を橋から放り投げていたら、今頃は自分が簀巻きにされて大川に放り投げられていただろう。

 弥助も運が良かった。あの時食べた蕎麦が旨かったのは、冷え切った体を温めてくれたからでも、空き腹だったからでもない。本当に旨い蕎麦だったのだ。
「夜鳴き蕎麦屋に弟子入りなんて、聞いたことないがなぁ」
弟子にしてくれと土下座して頼み込む弥助に、親方は困り果てて言った。辰三親分の口利きで、やっと弟子入りが許されたのは十日ほど経ってからだった。
「夜鳴き蕎麦なんてものはなぁ、温かけりゃそれでいいんだ」
親方はそう言いながらも、出汁やかえしにはずいぶんとこだわっていた。親方の住んでいる長屋の床下には、かえしの入った甕(かめ)がずらりと置かれていた。
 
 親方の下を離れて独り立ちをしたのが三月前だった。回向院近くの裏店に住まいを移し、親方の商売の邪魔をしないようにと、夜は日本橋で商売を始めた。大店ばかりが立ち並ぶ日本橋で、夜鳴き蕎麦屋なんて相手にもされないと思っていたが、やっと手代になったばかりの若い奉公人たちのお得意様がついた。
 この頃では蕎麦のほかにもいなり寿司や煮しめなども出すようになった。朝は魚河岸でにぎり飯も売り始めた。

「よお、元気だったかい」
弥助はひとかけらのかつお節を取り出すと、包丁の先で削り始めた。

 いつも曲がる一つ先の路地をやり過ごしたのは、ほんの気まぐれだった。夜明け前に開く魚河岸で、握り飯を売り始めてからすぐのことだった。朝飯にちょうどいいと、独り者の棒手振りたちが弥助の握り飯を買っていった。その日違った路地を歩いたのは、商売がうまくいきそうになって少し浮かれていたのかも知れない。
 
 やっと夜が明けたばかりだというのに、もう飯の炊けるいい匂いがして来た。どこのお店だろか。随分としっかりした女中がいるものだと、看板を見上げると大久保屋と書かれていた。板塀越しに路地を歩いていくと勝手口があり、その上から柿の木の枝が路地の上に張り出していた。たった今しがた掃いたのだろう、路地には落ち葉が一枚も落ちてはいなかった。
―たいしたものだ、もう掃除もすんでいる
この季節すぐに葉っぱも落ちてくるのではないのかと、柿の木を見上げようとした時、塀の上を歩く猫と目があった。とたんに弥助はギョっとなって後退さった。猫が鼠を咥えていたからだ。

「タマ……」
 思わず呟いた弥助の声が聞こえたのだろうか、猫は塀の向こう側に飛び降りていった。
―当たりめぇだな。
弥助が呟いて歩き始めたときだった。塀の上から猫が飛び出してきた。
「お前、相変わらずいい腕だな」
 声を掛けた弥助にむかって、猫は尻尾をピンと立てて近づいてきた。弥助は猫の頭を撫でようとした時だった。
「鼠を片づけておくれ」板塀の向こうから声が聞こえた。思わず振り向いた弥助の耳に「かしこまりました」と答える若い娘の声が聞こえてきた。自分の気持を無理に押し殺したような、あの低い声には聞き覚えがあった。 

   人の気持ちがわかるのだろうか。吉田屋で米の売り上げをごまかしていた頃は、タマは弥助に近づこうともしなかったのだが。

草むしり作「わらじ猫」中2

2020-03-03 00:30:52 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中2
 ㈢大久保屋の大奥様②
 弥助編2
 あの日は空き腹を抱えて、借金取から逃げ回っていた。捕まったのは、身を潜めていた長屋の奥の小さな社の裏から、水を飲みに出たときだった。じめじめとした社の裏に身を屈めて、賭場のやくざたちをやり過ごしたすぐ後だった。
 
 井戸端では人のよさそうな裏店の女房が洗い物をしていた。洗い張りの内職でもしているのだろうか、大きな桶に手を突っ込んでジャブジャブと威勢よく洗濯をしている。よく見るとまだふさふさとした産毛の生えた仔猫たちが、女の頭や肩にまとわりついていた。中には太りじしの女の尻で潰されそうになったのか、尻の下から飛び出してくる奴もいる。
 朝から逃げ回っていることや腹の空いたことも忘れて、そのようすを眺めていた時だった。ポンと肩を叩たれたのは。

「お兄さん遊んでいかないかい」
茣蓙(ござ)を抱えた夜鷹が袖を引いた。
「そうかい、また今度ね」
弥助の顔を覗きこんだとたん、後ずさりながら去っていった。
どれくらい時間が経ったのさえも分からなかった。川面に船宿の明かりがチラチラと映り、ドクドクという鼓動と一緒に痛みが体中を駆け巡った。すれ違う者たちが、目をそらして自分を避けていく。

「ざまねぇや」
 口に溜まった唾を地面吐きつけると、また口の中が生臭くなってきた。ジャリジャリとした砂の感触は何度唾を吐いても消えなかった。もう一度生臭い唾を吐こうとしたときだった、目の前に猫がいた。
「テメェ、タマだな」
 猫は後ろ足で気持ちよさそうに喉首を掻いていた。弥助を見ると、尻尾をピンと立ててスタスタと歩いて行った。
「チクショウ、待ちな。今度こそ川に放り投げてやるから」

 元を正せば賭場通いが止められず、店の売り上げをごまかした自分が悪いのだが、何もかもがみんなあの猫のせいに思えた。賭場の親分の前に引きずり出され、さっきまで殴るけるの仕置きを受けていたのだった。
「くそぅ、あの猫さえ、あの猫さえいなければ、もっと上手く立ち回れたのに」
 薄らいでいく意識のなかで、弥助は必死に猫を呪っていたのだ。

    猫は橋の欄干の上に登ると、毛繕いを始めた。片方の手を舐めてはごしごしと顔をしごいている。それが弥助にはおいでおいでとしているように見えるのだった。
「馬鹿にしやがって、じっとしていろよ、そうだじっとしていろよ」
両手で猫を捕まえたと思った瞬間、体が空中を飛んでいた。
「これで救われた」ぶくぶくと水の中に引き込まれ、遠ざかる意識の中で弥助がそう思ったときだった。髷を思い切り掴まれて水面に引き上げられた。

 弥助の削ったかつお節を、タマは旨そうに食べている。満月の中に大久保屋の屋根が浮き上がって見えるような、静かな夜だった。
 
 もう寝たのだろうか。いじめられてはいないだろうか。古くからいる女中に叱られてベソをかいていた、子守の子どもの赤い頬っぺたを弥助は思い出していた。
 そのときだった。タマが食べるのを急に止めると、総毛立てて身構えた。何かいるのだろうか。あたりを見回した弥助は、人の足音に気づき、とっさに用水桶の陰に身を潜めた。

 満月の中に二人連れの男たちが見えた。一杯引っ掛けた後に次はどこに行こうか、そんな遊び人のようにも見えるのだが。どこか物腰に油断のならない胡散臭さが漂っている。そういえば昨日もこの当りですれ違った二人組みだ。タマはますます総毛立てて、低く身構えている。