草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」後9

2020-04-24 18:33:39 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」後9 


大奥のお局さま (すすかぶり)

「如何なされました」
 蔦山さまが駆けつけた時には、お局様と若君の前に一人のお端下が地面にすわり頭を深く下げていた。
「いやなに、たいした事はない。湯殿の煙突が煤で詰まったゆえ掃除をしていただけのことじゃ。無理もなかろう、このところ朝から晩まで湯殿の火が絶えたことがなかったゆえ」
 
 地面に頭をこすりつけるようにしている御端下は、煙突の掃除をしていたのだろうあ。体のあちらこちらに煤がつき、頭は灰を被ったのか真っ白になっていた。よく見ると背中には仔猫が飛び乗ってじゃれ付いている。中には腹の下にもぐりこもうとする者もいる。
「お局様大事ございませんか」
声を掛けたのは鈴乃屋だった。

「おお、鈴乃屋殿であったか。此度は面倒をかけるがよろしく頼みますぞ。そういえば確かこの猫は、その方がお蔵方に納めた猫だと聞いたが、相違いござらぬか」
お局さまの草履の鼻緒に、母猫が顔をこすりつけている。
「おお、まさしくタマに相違がございません。一緒にお納めした赤トラ、青トラの二匹はとっくにお役御免になりまして、手前どもに返されてから久しゅうございますのに。大奥で子どもまで産むとは、しかしどの子もタマに似てかわいらしゅうございます。タマの子はどれも鼠捕りが上手だと聞きます。この仔猫達も今に鼠捕りが上手になることでございましょう」

 仔猫は三匹生まれていた。子猫たちは既に貰い手も決まっているそうだ。加賀様と尾張様の江戸屋敷に、一番小さくて母猫のタマそっくりな仔猫はなんと佐賀の鍋島藩の御国元のまで行くという。長屋のお稲荷さんの祠で拾われた猫の子が、なんという出世をしたものかとは思わずにはいられなかった。

「この猫のお蔭で大奥の鼠がすっかりいなくなったものよ」
お局さまは地面に屈みこみ母猫の喉を撫でていた。母猫は気持ちよさそうに目を細めている。もっと撫でてもらいたいのだろう、首を思い切り伸ばしている。
「なにか褒美を取らせたいと思うのだが、みそ汁を掛けた飯しか食さぬようだ。それでは子どもに乳が足りないのではと心配しておったところじゃ。その方、何かこの猫が食するものを知らぬか」
若君は仔猫を抱くと、未だに頭を下げ続けているお端下の回りをグルグル回りながら「すすかぶり、すすかぶり」と囃子立てている。

「さようでございましたら、ちょうどいいものを持ってまいりました。『猫あられ』と申しまして、魚に米や野菜を混ぜて作り上げたものでございます」
鈴乃屋は懐から油紙の包みををとりだした。
「食べさせ方は弟子の一心に説明させますゆえ。これをご覧くださいまし」
鈴乃屋は猫あられよりも、少し小ぶりの餌を取り出した。
「こちらの餌は『鯉みぞれ』と申しまして、先ほどの猫あられを鯉の餌用に改良したものでございます」
鈴乃屋はお局さまや若君、騒ぎを聞きつけて集まった女中たちを池に誘うと、手の平をパンパンと打ち合わせ鯉を呼び寄せた。音を聞いて集まった鯉に懐から取り出した餌を撒いてやった。
「これなる鯉みぞれを与えますと、錦鯉の色が鮮やかになり……」
鈴乃屋はお局様に鯉の餌の説明をはじめた。

「これなる猫あられは、手前が女房のお仲と考案したものでございます」
後に残った太助はお端下女中に餌の説明をしていた。
「米ぬかは米屋吉田屋から仕入れております。吉田屋の姉娘はそろばんの腕が見込まれて、日本橋の太物問屋『常盤屋』さんに嫁入りなさいました。嫁入りなされてもそろばんを手放さないようでございます。腕白坊主だった跡取り息子も今では米俵を担いでおります。末娘のほうは、可愛らしくお育ちです。
 
 この米屋の糠と鮪の切り身を女房のお仲がこねておりましたところ、長屋のお松さんと申しますお節介焼きのおかみさんやってまいりました。手には菜っ葉の切れ端や、汲み取りの百姓にもらった芋や南瓜を持っておりまして、『魚と糠ばかりよりも野菜も食べさせたほうがいいじゃないのか』と申しました。

 このお松さんこの頃また太ったようでね、本人は気にしているのですがね。亭主の甚六さんのほう木彫りの腕が上がり、三月(みつき)前に新しく立て替えた八幡様のお社の柱上の貫(ぬき)に縁起物を彫ってくれって頼まれました。二つ返事で引き受けまして、彫ったのがあくびをしている猫でございました。それがまあ大きな大あくびでございまして。何処が縁起もんだって聞かれて、猫があくびするくらい平和だって言うんですがね。ただ猫が好きなだけじゃないかと噂されております。
妹娘のおみつは娘義太夫の舞台に立てるようになって人気も出てきたよう………」

 御端下は猫あられの入った袋を握り閉めながら、太助の話をコクリコクリと頷きながら聞いていた。煤で汚れた手で涙を拭いたのだろう、お端下の目のあたりは煤で黒く縁取りようだった。その顔を見て若君が狸のようだと囃子立てている。お局様は懐紙を取り出すと、お端下に渡していた。足元では仔猫たちがじゃれあい、横になった母猫は大きなあくびをしていた。夕暮れの秋の空には赤とんぼが無数に飛び交っている。

―なんでぃ、大奥でもやっぱり子どもと年寄りに好かれているじゃないかい。
赤とんぼを取ってくれと若君にせがまれたお端下は、手にもっていた手ぬぐいを振り回し始めた。母猫は飛び上がって赤とんぼを上手に獲っている。仔猫たちも母親の真似をして、赤とんぼに飛びかかっていた。
―なんでぃ、また背が伸びたようじゃないか。
太助はいつの間にかお端下の姿が涙で見えなくなっていた。

「鈴乃屋どの、此度の観月の宴、鈴虫を楽しみにしておりますぞ」
夕暮れが近づいて風が出てきたようだ、池の水面が静かな漣(さざなみ)を立てていた。やがてお局は若君と一緒に薪小屋を後にした。

 お局様に手を引かれた若君は、庭石の上に何かが置かれているのに気がついた。けれどもそれが鼻緒の切れた片方のわらじだとは知らなかった。若君はまだわらじを見たことが無かったからだ。気にはなったが、落ちている物を拾ってきてはいけないと言われていてので、そのまま行ってしまった。だから庭石の影から何かがポンと跳び出したのを、若君は知る由も無かった。