草むしり作「わらじ猫」中7
大久保屋の大奥様⑦
娘心と男心2
「だからね、あっしは怪しいものではありませんよ。大奥様、大奥様。太助が参りました」
やっと検分が終わったばかりで、まだ外からの出入りが出来ないのだろう。外から男の声がきこえる。
「ずいぶんと騒動しい奴だな」
親分が呆れていると、誰かがとりなしたようだ。男は片手に天秤棒を担ぎ、空いているほうの手でタマを抱きかかえて、炊事場に飛んできた。親分は男の持っている天秤棒を見て、弥助みたいな奴がもう一人いると思った。そういえば、弥助の姿が見当たらない。
「馬鹿やろう、もう四杯目じゃないか。なんて食い意地のはった奴だ…」
「静かにしねぇと、ばれちまうだろうが」
大久保屋のむかいにある料理屋の二階の暗闇の中で、親分は弥助を静まらせるのに必死だった。ここ数日、二人で大久保屋を見張っていたのだ。弥助はおなつが甘酒を四杯も飲むので、ハラハラしていたのだ。
「危ないからおまえはあっちに行っていろ」と言う親分に、「子守のあの子やタマに 何かしやがったら、承知しない」弥助は天秤棒を握り締めて捕り方の後からついてきた。そんなに心配だったら一目顔を見ていけばいいのに、盗賊をお縄にしたとたん弥助の姿が何処にも見えなくなった。
―もうあの子は子守の子どもじゃねぇんだが。あいつを見たって怖がりやしねぇのに。
―ついでだからこの弥助みたいな野郎のことをもう少し見ていこう。と親分は思った。
「大奥様太助でございます。大事ございませんか。おなっちゃん、お仲ちゃん。あっしが来たからには心配いりませんよ」
男は片手に天秤棒、もう片方の手にはタマを抱いている。
「太助さん、タマが、タマが助けてくれたのよ」
太助の声を聞いてお仲が奥から飛び出してきた。泣いたのだろうか。タマのこぼした油のついた手で涙を拭ったようだ、顔がテカテカと光っている。
「お仲ちゃん、喋れるのか。喋れるようになったのかい」
太助は驚いて手に持っていた天秤棒を取り落としてしまった。カランカランと乾いた木の落ちる音が、土間に響いた。タマはその音に驚いて太助の腕の中から飛び出した。その拍子に太助の片方の頬を、後ろ足で蹴り上げてしまったが、太助はそんなことも気にならないようだ。両手で包みこむようにお仲の手を握っている。太助の頬はみみず腫れになって血が滲んでいた。
「おや太助、お前はいったい誰が心配でやってきたんだい」
手を握りあって見つめあう二人に、タマを抱いた大奥様が声をかけた。なんてことだ、あの大奥様まで油でギトギトになっている。
「大奥様、大事ございませんでしたか。お仲ちゃんが、お仲ちゃんが………」
お仲が声を取り戻した。そういいたいのだが言葉にならないのだ。太助はいつまでお仲の手を握ったまま放そうとはしなかった。
「なんだね、朝から。嬉しいのは分かるけど、いいかげんに手をお放し。相生橋の辰三親分が呆れているじゃないかい」
「いや、何………」
急に矛先が自分に向けられ、なんと言っていいのやら、親分は言葉が出てこなかった。
「どうした、おなっちゃん。顔色悪いぞ」
太助は大奥様の後ろにいるおなつに、やっと気がついたようだ。
「…………」
「おいどうした。そんなに怖かったのか、それとも何処か具合が悪いのか…」
心配そうにおなつの顔を覗きこむ太助だったが、それでもまだお仲の手は離さなかった。
「…………悪い」
「うん、どこが悪いんだ。腹か胸か。なんか悪いもの食ったんじゃないのか」
「う…………」
「そうか食ったのか。何食って悪くなった」
「う太助さん………、…臭い親父………………気持ち悪……」
おなつは口を手で押さえて走り去っていった。
「おいらが、臭い親父で気持ちが悪いのか」
太助は握っていたお仲の手を離してその場にうずくまってしまった。
「太助さん、あのね。胡散臭い親父に甘酒を飲まされて、気持ちが悪くなったの」
おなつは嘔(え)吐(ず)ながらも太助に話したのだが。
「太助さん、臭い、親父、気持ち悪い」としか太助には聞き取れなかったようだ。
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