オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

楽をするために苦労する話

2006年07月07日 | Weblog


テレビを見ているとおいしい話がたくさんある。

 体を動かさないでダイエットする方法、だらしない生活であっても健康に過ごせる方法、手間をかけないでも簡単に食べられる方法、働かないでも金を儲ける方法、勉強しないでも資格が取れる方法、労力をかけないで能力が向上する方法、等々世の中にはいろいろな宣伝文句でお客を呼び込もうとする商売が溢れている。

通常は、イザと言う時に即座に対応できるようするためには事前の準備が必要である。

 事前の準備を他人にやらせて、おいしい所だけを横取りするのは虫のいい話である。その代わりとして通常は高額の代償を払わなければならない。代償は事前の準備にかかった以上の高額なものが請求されることになる。楽はしたけれども、その分の代償はしっかり払わされるのが常で、その分を後回しにしただけに過ぎない。代償を払わなかったら信用を失墜し次からは二度とおいしい思いをすることができなくなる。

楽をしよう楽をしようと思えば思うほど高額の代償がついてくる。

 自分自身がやらないと意味のないものまで自分でやらないで済まそうとするのは何か変である。運動をしないで運動をしたのと同様の効果をあげる、節食をしないでもダイエットする、不規則な生活をして健康を保つ、等々である。私が思うに、一番楽な方法は素直に運動をし、節食をし、規則的な生活をすることだと単純に思う。何故これらをやらないで取り返しのつかない状態に追い込んだ後で理想を取り戻そうとするのか理解に苦しむ。

楽をするために苦労しているのである。

 そして、その結果は悲惨である。場合によっては詐欺行為の餌食になって、生命の危険にさらされたり、身体に悪影響を及ぼしたり、何の効果もなかったり(これが一番ラッキーかも知れない)、さらなる高額の代償を払わされたりである。楽をする目的のためだけに固執して数多くの苦労を厭わないで熱心に取り組む時間と労力と気力があるのなら、最初から本来の正攻法で問題解決を図った方が前向きで積極的で一番効率的で最終的な効果も期待できる。何故ヘンテコで複雑な手順を追求するのか理解に苦しむ。

時間の経過や日々の継続にはそれほど労力を必要としない。

 何もしなくても時間は経過するのであり、どうせ同じ時間の経過を経験するなら、何かをやることに使った方が自然であり楽である。何もしないで時間を浪費することの方が苦痛なはずである。そこに一貫した目標を持って行動するかどうかに大きな差異が生じる。目標に向かってコツコツとやる分にはそれほど労力を必要としない。あとは一定期間継続することである。結果は何もやらない人と雲泥の差がつく。この時何もやらなかった人が飛びつくのが前述の何もしないで楽してできる方法なのである。

例えば、マラソンで一歩一歩走ることによりゴールに達するのを望む人と、

 走ることをしないで走ったことと同様の結果を望む人と、どちらが素直に目的を達成できるのだろう。当然前者である。結果の成果も達成感も格段に違うはずであり、あれこれと誤魔化しの方法を考える必要もない。そして一歩一歩の継続が本人の身体的、精神的向上に直接つながっている。これ以上効率的なやり方はない。この「一歩一歩の継続」というプロセスを踏むことそのものが目標への段階的なステップになる。このステップなしに目標到達はあり得ない。

マラソンコースを車で移動した場合最終的なゴールの絵柄は同じにできるかも知れない。

 走らなくても走ったことと同様の結果を生む。しかし、目標はA地点からB地点への移動だけではない。自分の足で走ること、完走すること及び自己目標記録の達成である。そういう意味では何も目的を達成していない。もし走破したと嘘をつくつもりならば、自分も周囲も偽っていることになり何の得にもならない(金銭がからめば別かも知れないが)。

楽をして効率的に目標を達成することは一見すばらしいことのように見える。

 しかし、よく考えてみると、達成目標を引き下げて見かけ上目標を達成したかのように錯覚させているだけである。そしてその達成した目標は誰かがある目標を達成した方法を忠実に再現しているだけで自分の設定した目標でもなければ自分独自のやり方でもない。目標は試行錯誤により苦労して達成することに意義がある。自分で試行錯誤し苦労した目標は自分だけの目標である。目標を達成することはそのまま試行錯誤と苦労の継続と同じことであり達成した事実は結果にしか過ぎない。

簡単お手軽なものは、通常表面的で薄っぺらなものが多い。

 労苦を厭わないで、自分でやってみようと挑戦すると以外と簡単にそこそこ本格的なものを生み出すことができる。かかる費用は数分の一、場合によっては数十分の一である。例えば、どんなに最高級のインスタントコーヒーであっても本物のコーヒーを味わうことは困難であるが、コーヒー豆を挽いて熱湯で落とせば本物を味わうことができる。挽く労力も落とす労力もそれほどでもないし、本物が目標であればその過程と試行錯誤は大いなる楽しみに変わる。  

しかし、無駄な苦労はしたくないものである。

 どのようにすれば効率的に目標を達成できるかを自分で考えるのも必要なことである。ここで創造性が発揮されないと結果は無駄な苦労に終わってしまう(悲惨な味のコーヒーが抽出される)。他人が目標達成した経過と結果の事実は参考にこそなるが、そのまま模倣するのは効率的ではないはずである。なぜなら、他人と自分は違うから・・・。目標の描き方も目標達成の方法も達成に必要な時間も当然ながら身体も精神も違うはずである。違わないと言うなら自分の個性を自ら抹消していることになる。自分なりのやり方を案出しなければならない。

ずうーっと長い間の苦労の積み重ねがあって目標達成した喜びは一日と続かない。

 翌日からは次の目標に向かって、また苦労が始まるのである。この苦労を喜びとしない限りただの目標達成の瞬間の喜びだけでは意欲がそがれてしまう。苦労の中に楽しみを見つけ、日々の小さな目標を設定してこれを達成した小さな喜びを実感することが継続のための原動力となっているのではないかと思う。この「苦労」を省略することは、目標達成の主要な部分をバッサリと捨ててしまっていることに近い。


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