オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

縦割りの組織は果たして悪いのか?

2010年01月08日 | Weblog
新年明けましておめでとうございます。
今年も日本にとっていい年である事を祈っております。年末年始の空いた時間にひらめいた雑文を綴ります。今年もよろしくお願いします。



何かにつけて「縦割りの組織が悪い」と極め付けて諸悪の根源みたいな事を言う。

 縦割りの組織が悪いのなら横割りの組織を作るのかと思うが、そうでもなくて、単に組織をバラバラにして個々に自由なのが一番いいとの結論なようだ。個々がバラバラで自由なのは「組織」とは言わない。皮肉な事に、個々がバラバラで自由な状態は最小単位の究極の「縦割り組織」である。こんな組織が現状の縦割り組織以上に有効に機能するとはどう考えても思えないが、有識者と言われる頭のいい方々はこの究極の縦割り組織を目指しているようである。

ところで「縦割り組織」とはなんだろう。

 形状が縦割りになっている事をもって「縦割り組織」と言っているのだろうが、組織を有効に機能させるためには分業は欠かせない。どんな会社であっても、組織がズドンとひとつだけあって、巨大なゾウリムシみたいな単細胞の形状をしている会社はない。組織が大きくなればなるほど分業化が進み機能は分化してゆく。適正に機能する組織の規模には一定の基準があり、これ以下であれば効率が悪く、これ以上であれば組織の統制が機能しなくなりこれまた効率が悪くなる。そして、巨大な組織は自然と適正な規模の塊に組織が分化してゆく。そしてこの分化した組織が相互につながってネットワーク化し総合機能を発揮するようになる。総合機能を発揮するためにはどうしても分化した組織は上下関係の機能が必要で最終的にはピラミッド構造になる。これがいわゆる「縦割り組織」であろう。

それじゃ、「横割り組織」とはなんだろう。

 縦割り組織が目的別に一定の総合機能を持っているのに対して、総合機能そのものを機能別に分業化して、その分業化した組織単位が全ての目的に関与する組織であろうと思う。コンピュータネットワークのアーキテクチャーのように下層から上層まで機能別に階層構造に積み上げたものが連想できる。しかし、この考え方は自然発生的ではないし、効率だけを考えた科学が生み出したもので、人間的な感性からは違和感がある。特に下位層では単純作業ではあるが、全ての事象を取り扱う事になる。お役所で一部取り入れられている「すぐやる課」「何でも相談受付」みたいな概念が全部の部署に行き渡ることとなる。これまた大変であろうし、実現性困難だと思わざるを得ない。

こう考えてくると、「縦割り組織」そのものが悪い訳ではなさそうである。

 「縦割り組織が悪い」と言えば、何となく納得してしまう政治家と有識者と評論家と国民がいるが、「縦割り」が悪いと言うよりも、「現状」が悪いと不平を言っているだけではないかと思う。その不平の矛先が「縦割り」になっている。「現状が悪い」と言う主張は単に不平をぶちまけただけで愚痴を言っているだけに過ぎないが、「縦割り組織が悪い」と言えば、立派な体制批判と改革を主張しているように聞こえるのは不思議なものである。 そうではあるが、一皮剥いてみると何にも中身がない。私に言わせると「縦割り組織」が一番素直で受け入れやすいと思う。

縦割りの形状が悪いのでなく、この組織を運営する主体そのものが悪いのである。

 縦割り組織相互の連携と調整が取れていないし、縦割り相互で有効な競争原理が働けばよりよいものへの向上が期待できるが、実態は自己顕示と我儘と保身と既得権と形骸化と損得勘定の中でそれぞれの縦割り相互が井の中の蛙のどんぐりの背比べ的な競争が繰り広げられている。縦割りそのものは問題ない。この運営の仕方を改善・改革すればいいのである。「縦割り組織が悪い」→「縦割り組織をぶっ潰す」→「理想の組織が出来上がる」というような短絡志向があるが、これは危険だと思うし見当違いも甚だしい。従来の組織の中で本来の運営主体が有効に機能していないことの問題を最初に解決すべきである。その問題点を放置した責任者は政治家であり、官僚であり、ひいては日本国民である。その部分を棚に上げて、形を変えれば問題が解決すると思ったら大間違いである。政治家、官僚、国民が考え方を変えない限り組織という形を変えても結果は同じであろう。

「事業仕分け」というヘンテコな作業が昨年末行われた。

 訳の解らない人が、個人の一般常識だけを頼りに、国民的視点からという大義名分で、国家の予算を「仕分け」した。こんな危険なことはない。少なくとも、ある事業分野ではこの仕分け人の判断に国民の判断が委ねられた事になる。そして、そのほとんどが受け入れられ、「仕分け」がなされた。こんなことは一回こっきりにしてもらいたい。本来であれば、政治家が官僚が国民の理解を得られるような国家の予算を組む作業を一年かけて相互に連携して周知を集めて行うべきなのである。その機能がどういうわけか働いていない。何故そうなってしまったのかを詳細に分析し反省し改善すべきである。私の感覚としては、下層部は有効に機能していると認識している。問題は上層部で、責任ある立場の人がその権限を有効に行使して使命を果たしていない。バラバラの塊が集っているだけでネットワーク化されていないし、全体としては総合機能を発揮していない。そして総合機能の進むべき目的・目標も定かでない。だからこんな体たらくになるのである。現状の悪いところを一生懸命改善しても組織は縮退するだけで創造的な活動は生まれない。創造的な活動は創造的な個人の能力の発揮にかかっている。結局は、創造的な個人が自由に主張し意見を言い合う環境が求められているのだろう。

「馬鹿」という言葉がある。

 「馬鹿」は知識・能力がないことではない。知識・能力はあってもこれを生かせない、もしくは、生かそうとしない人達のことである。知識・能力のない本当の「馬鹿」は何も問題ない。結局何もしないし、何も期待されない。知識・能力のある「馬鹿」が世の中を一生懸命悪くする。何故かと言えば、自分の知識・能力で判断して、権力におもねったり、大衆に迎合したり損得を勘定したりして正常な判断を狂わせてしまうからである。「鹿」を「馬」と言われて、自分では「鹿」だと思っても、ボスが、上層部が、周囲の人が、下層部の人が「馬」だと言ったら「馬」だと積極的に主張する人なのである。頭がいいばかりに救い難い間違いを積極的かつ精力的に行う。一番最初の「鹿だ」と判断した自分の意思に誠実に対応する事が重要なんだろう。そして、その判断に責任を持って対応する、結果にも責任をもつ誠実さが大切だと思う。

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